天台寺

東北の仏教を理解したければこの寺へ。

(岩手県二戸市浄法寺町)

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東北地方で名刹を5つ挙げろといわれたら、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺と毛越寺、山寺こと立石寺、そしてこの天台寺、であろうか。

だが、他の4ヶ寺が誰でも知っているのに比べて、天台寺の知名度はイマイチだ。

天台寺は明治の廃仏毀釈で荒廃し、さらに戦後、管理人が全山の杉を売り払って伐採したため、はげ山になり最近まで荒れ放題だったという悲惨な歴史を持つ。

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元々は桂の樹の根元から泉が湧いていることから桂観音と呼ばれ、開基は奈良時代ともいわれ、平安後期までは確実にさかのぼれるという恐ろしく古い寺なのである。

左写真はその清水。水はあまり綺麗ではなく、飲めそうにない。

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現在、寺をなんとか盛り返そうと、必死の努力が続けられている。

1987年に瀬戸内寂聴が住職に就任し、月に一度寂聴氏が寺を訪れて説法が行われている。(寂聴氏の住まいは確か京都市。)

1990年には本堂(左写真)と仁王門が国重文に指定された。それほどの建築とは思えないが、当面の文化財保護という観点からは意味が大きいだろう。

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入山料は300円。私は入山料というのは好きではないが、宝物館の入館料込みなので文句はない。ほかに山上の駐車場が500円。これは暴利だと思ったが人がいなかったので払わなかった。有料駐車場に置いても、参道入口の無料駐場に置いても歩く距離はあまり変わらないので、もしお金をとられそうになったら引き返して無料駐車場に置こう。

前回来たときよりも、境内は整備されている。土産物売り場には、寂聴グッズがいろいろ売られていた。

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さて、この寺に来た理由は、ユニークな仏像たちに出会うためである。

左写真は仁王門の吽形像。

だいたいどこの県でも、本堂の中に収まっている本尊に比べて、仁王像は自由奔放でおおらかな作りなのだが、それにしても相当に個性的な顔立ちである。

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阿形像。上半身がほっそりとしていて、下半身のたくましさと比べるとあまりにもアンバランス。どちらかが後補なのであろう。全身は「く」の字のポーズなのだが、上半身だけが妙に左にかしいでいて、なんだか転びそうな感じだ。

こうした個性的な仏たちは、天台寺に限ったことではなく、東北ではポピュラーな存在なのだ。西国の洗練された仏教文化と比べ、この最果ての地では仏像も建築物も素朴さというか縄文的なおおらかさを持って迫ってくる。それは東北の寺を巡るときの楽しみの一つであると言ってもいいだろう。

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左写真は、本堂の中の薬師如来座像。サイズ的には大仏に属するサイズだろう。廃仏毀釈で野ざらしになっていた期間があり、風化が激しい。

薬師如来というのは通説であって、本当は何の仏なのかわからないのだという。

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本堂の裏手には宝物館があり、こちらでもユニークな仏が待っている。

左写真は、聖観音像(国重文)。平安中期の作という。

よく見ると、全身に横に鉈の跡が見られる。この種の手法を鉈彫りというのだそうで、この聖観音は東北鉈彫仏の最高傑作と言われているものである。

着衣や冠はとてもシンプルでいかにも東北の仏という雰囲気だが、ディテールの粗さとは裏腹の軽やかさを感じさせる不思議な仏だ。

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左写真は如来立像(県文)。

何如来かということはどうでも良いことなのだ。素朴な信仰のなかで、いつしか如来と呼ばれるようになった一体の神様、と言うことなのだろう。着衣や肉付きの表現方法は、ちょっと他所では見られない素朴さだ。

私がまた天台寺を訪れたのは、実はこの仏に会いたかったからでもあるのだ。

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左写真は吉祥天立像。

なんと、体には彫刻がなく、墨書で着衣とその模様が書かれているという大胆な仏だ。まるでコケシである。

この仏像を初めて見たときにはカルチャーショックすら感じた。天台寺は、これが東北の仏教なんだ、ということを体で覚えることができる場所なのである。

この気分は、なかなか写真では伝わらない。

(2000年10月04日訪問)