志和の水げんか

激しい投石で志和稲荷の狐の耳が欠け落ちたという。

(岩手県紫波町土舘)

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旅の2日目のスタート。花巻空港の近くの宿を立って高速道で一区間走り、昨日訪れた紫波町へ戻る。

その紫波町の西側の山並みのふもとは水田の広がるのどかな田園地帯(左写真)だが、ここには悲惨な水げんかの歴史がある。

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“水げんか"とは、つまり水争い。干ばつの時に水田に引く水を巡っての争いである。

“けんか"といっても言葉で言うほど気安いものではなく命がけの闘争である。

昨日訪れた極楽寺の山門の横には水げんかで命を落とした農民の供養塔が建てられている。

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ちょうど川ぞいに住んでいる老人が散歩に来ていて話を聞くことができた。

水げんかが争われた場所は志和稲荷神社のすぐ前の滝名川。左写真のあたりである。

この川の水を利用するのは北上川の西岸の広い地域だが、水源は見てのとおり小さな川だ。

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川は左写真の中州で高水寺堰という用水に取水されて、二股に分かれていた。干ばつになるとこの堰への取水を巡って、堰を壊そうとする本流側の下流の農民と、堰を守ろうとする高水寺堰側の農民が川を挟んで対峙した。

水げんかは江戸時代から幾度となく繰り返され、最後に起こったのは大正13年のことだったという。

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農民は鎌をもって集まり、石を投げ合って争ったという。石を集める者、運ぶ者、投げる者、炊き出しをする者。村中総出で命がけで戦った。

志和稲荷の門前の狐は、そのとき投石が当たって耳や口が欠け落ちたのだという。(左写真)

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本流側の農民が陣地を作っていたという杉山。(写真中央)

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高水寺堰側の農民の陣地は写真中央の杉林の中にあったのだそうだ。

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上流に山王海ダムができて水げんかの心配がなくなったのは昭和26年のことである。

現在もダムの改良工事がすすめられているようだ。

“豊かな水をもとめて"という標語があまりにも重く感じられた。

(2001年08月12日訪問)