長松寺

船尾山から矢に結わえて放たれた観音が落ちた場所だという。

(群馬県吉岡町漆原)

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長松寺。この寺に関する私の一番古い記憶は、中学のころ父親の運転する車でこの寺の横を通ったときに、境内で縁日をやっていたのを見たことだ。あとでその縁日は長松寺の“ざる市"だと知った。正月の14日が市の日で、ざるや福ダルマなどが売られる。2000年に出版された『ぐんまのお寺・天台宗 II 』には「養蚕用の大ざるや小ざるの市」という記載があるが、いくら養蚕が盛んだった吉岡町でも2000年の段階では養蚕用のざるの需要はないだろう。著者も編者もソースの古さに気がつかないのだろうか‥‥。

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寺は利根川西岸の河岸段丘の上に建っている。寺の横の坂は鴻降坂というのだそうだ(左写真)。

この道は佐渡奉行街道と呼ばれる街道である。佐渡奉行街道は三国街道の間道で、埼玉県の本庄から渋川市までの短い街道だが、ひとつ南にある総社宿あたりから上越国境までの風景は、関東の最果ての地の侘びしさを感じさせるいかにも上州路という風情があって私の好きな道だ。

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縁日が行われるのは寺の裏にある“矢落観音"である。車はそちらに駐車してまず本堂の方へ行ってみる。

山門の前には石像の金剛力士像。山門は薬医門である。

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本堂は寄棟造のトタン板葺き。このような屋根の本堂はかつて茅葺きであったのだろう。

トタン板は桟瓦の形にプレスされたもので、昭和末期の寺の葺替えでよく使われたものだ。どうせニセ物なのであれば、桟瓦風ではなくて本瓦風にすればよかろうと思うのだが、プレスではそこまでの凹凸は作れないのだろうか。

そもそも関東では本瓦葺きの本堂というのはあまり見かけず桟瓦葺きが多い。関東の仏教建築がどこか貧しい感じがする一因になっているように思う。

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山門を入ってすぐ左側には方三間の不動堂。屋根は宝形でてっぺんにはなにやら宝珠のような宝剣のような四角錐の物体が載っていた。

内部には十王も祀られている。

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不動堂の隣には土蔵造の二尊堂。

内部には岩船地蔵と水子地蔵が祀られている。

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岩船地蔵の尊像。厨子が船の形を表わしているのであろう。

岩船地蔵は群馬では他に前橋市の公田という場所で見たことがあるがどちらも利根川の岸にあるというのはなにか関連はあるのだろうか‥‥。

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寺の裏手には“矢落(やおち)観音"がある。またの名を“ざる観音"ともいう。

矢落観音には次のような伝説がある。平安の末期のころのこと、榛名山に船尾山という大寺があったという。その寺が平常将という豪族に攻められ焼き打ちされた。軍勢に囲まれ、もはや寺の最後というときに、強力の僧兵が寺の観音像を弓矢にくくりつけて空に向けて放った。ちょうどそのころ、このあたりで桑の葉を摘んでいた娘がいて、観音はその娘のざるの中に落下したのだという。

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その観音を祀ったのがこの矢落観音の始まりだとするのである。

船尾山と呼ばれる寺がどこにあったかは詳らかではないが、現在の船尾という地名はこの場所から 7~8 Km は登った場所である。

観音堂はどぎつく朱色に塗られた、いかにも榛名山麓にありがちな江戸趣味の堂。左側にはお札所、右側には籠り堂がある。

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向拝の虹梁の木鼻には象や唐獅子などの彫り物があり、これまた中途半端な感じの極彩色に塗られていた。

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籠り堂の右側には富士浅間社の石祠がある。鳥居の笠木(上にある横材)が直線的に折れ曲がっているのがおもしろい。

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浅間社の横には四阿(あずまや)があり、利根川とその先に広がる赤城山のすそ野を一望することができる。

対岸の左側にこんもりとしているのは日本武尊が東征の帰路に休憩したと伝える橘山。対岸右側に見える小さな山は、山頂で天狗が相撲をとるという片石山(かたこくやま)

見渡すかぎりの土地には数えきれない伝説があるものだ。いくらこのサイトで細かなスポットを紹介したとしても、片石山のような場所を実際に訪れる日はおそらく来ないであろう。

(2002年03月09日訪問)