富岡製糸場

明治時代に建てられた工場が、百年以上使われた。

(群馬県富岡市富岡)

富岡製糸場は、明治5年に操業を始めた官営の製糸工場だ。散髪脱刀令が布告されたのが明治4年だから、ちょんまげに帯刀の武士が歩いている時代に、上州の片田舎に最新鋭の工場を建設したことになる。その当時の人々にとってはすべてが驚きだっただろう。

初期の器械製糸は手繰り方式の繰糸に毛の生えた程度のものだったが、動力を用いたり、作業分担しながら生産するという点ですでに工業と言えるものだった。製品の出荷は必ずしも順調ではなかったとも言われているが、各地に出来始めていた製糸工場の模範となった重要な工場だった。明治26年には模範工場としての役目を終えて民間に払い下げられ、最後は片倉工業という製糸会社の工場として昭和末期まで使用された。実に百年以上、同じ製品を作り続けた工場なのである。

昭和末期にはすでにこの建物の価値は知られていたが、一企業の稼働中の工場ということもあって文化財指定もできず一般の見学もできない状況だった。工場が操業をやめ、平成17年に施設が市に譲渡されると、やっと国指定重要文化財に指定された。国重文指定は遅かったくらいだろう。

その後、県と市によって世界遺産への申請がなされ、現在、暫定リスト登録までこぎつけている。世界文化遺産を審査する組織 ICOMOS(イコモス) から本登録に向けての具体的な不足点の回答も得て、外堀を埋める段階まで来ているようだ。

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大半の群馬県民は、富岡製糸場単体の日本史上での価値は認めつつも、世界遺産については半信半疑というのが実感ではないか。しかしここまでの経緯もふまえれば、最短で 2014 年の夏に本登録という着地点が雲間から見え始めているのだ。

そんな立派な文化財なのだが、これまで私はあまり見学したいと思ったこともなかった。2010年の1月にようやく、友人の家族と連れ立って訪れることになった。

友人も家族も今回が初めての見学。

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正面ゲートから入ると、壁のように見える建物が東繭倉庫で、内部にはミュージアムショップがある。何が見学できるのかは事前に調べてこなかったのだが、とにかく「ここさえ見学したら製糸のことに詳しくなれるのだろうな」などと漠然した期待をもっていた。

ところが結論から言うと、実際の見学コースには説明も少なく、しかも説明といってもレンガの積み方など雑学みたいな展示が多く、製糸についての突っ込んだ展示が少ない。

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同じ片倉工業の遺物の展示ならば熊谷市のシルク記念館のほうが詳細だし、製糸器械については岡谷市の蚕糸博物館の展示物が圧倒的だと思う。

養蚕や絹織物で栄えた県の博物館施設にしては、他県の博物館よりも展示内容で見劣りしてしまうのが残念だ。

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しかたないので、場内を勝手にぶらぶら散策することに。

最初に行ったのは、乾繭場。繭を熱風で乾燥させて保存しやすくする工程を行う場所。と言っても、乾繭機は外からは見えず、乾繭機に繭を送り込むコンベアが見えるだけ。乾繭機は繰糸機よりも目にする機会がないので、ちゃんと見せてほしかった。

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西繭倉庫。

内部は見れず、外から見るだけ。

乾繭が終わった繭をここにしまったのだとすると、繰糸場からも遠く、使いにくかったのではないか。末期の片倉工業がどうやって使っていたのかも知りたかった。

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煙突については案内板に高さなどが書いてあるが何のための煙突かが書かれいない。想像するに、乾繭機や煮繭機に熱を供給するボイラーの煙突ではないだろうか。

煮繭は、繭を煮て糸をほぐれやすくする工程。

煮繭機で煮た繭は、ベルトコンベヤに乗って繰糸場へ送られる。お湯に浸かったびしょびしょの状態でだ。昆虫の死骸を煮た水はすぐに腐敗するから、多量の新鮮な水と排水が必要となる。富岡製糸場が鏑川の岸に作られているのには、水の便も考えられているのだろう。

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繰糸場へ移動。

繰糸とは、繭をほぐして糸として巻き取る工程。繭からほぐした直後の状態のものを「生糸(きいと)」という。生糸は、有り体に言えば、白髪のような質感のもので、そのままでは糸や布にはできない、糸の原料なのだ。

生糸を加工して「絹糸(きぬいと)」にする工程は「撚糸(ねんし)」という。製糸工場では生糸までを製造し、撚糸は別の会社が行う。

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繰糸場は内部に入れる。繰糸機もカバーが掛けられているとはいえ、間近で見学できるし、部分的にはカバーを外して見えるようにしてある。しかし奥のほうへは入れず、煮繭機は見えなかった。

繰糸で小さな糸枠に巻き取った生糸を、さらに大きな枠に巻き直す「揚げ返し」という工程があり、揚げ返し機という機械が置かれた場所があるはずなのだが、そこも見学できず。

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繰糸場の東側にあった女工館。工女の宿舎だった建物。

女工というと、「女工哀史」のような悲壮なイメージがつきまとうが、富岡製糸場が創立されたときに全国から集められたのは士族の子女で、後に地方に戻って指導的立場になるようなエリートであった。

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見学できる範囲には他にもいくつも建物があるのだが、説明がないためよくわからない。

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左写真は、明治政府に雇われていたフランス人技師ブリュナの住宅。blogなどの記載を見ると、ここは特別公開日には中に入れるようだ。

結局、見学できたのは繰糸場の一部だけだった。500円の入場料はちょっと高く感じた。

世界遺産登録の着地点が定まっていないため、どのような方向性で展示すべきか群馬県も計画が立たないのかもしれない。世界遺産登録が確定したら、もう少し勉強になるように展示内容を充実させてほしいものだ。

(2010年01月10日訪問)