新林製糸

玉糸製糸所だったが早い段階で廃業したという。

(群馬県前橋市若宮町1丁目)

不思議な出会いの話をしよう。前橋の製糸と撚糸を探して、若宮町を歩き回ったある冬の日のできごとである。その一日の探索が終わり、疲れたので旧富士見村にある「富士見温泉 見晴らしの湯」という日帰り温泉に入ってから帰ることにした。

その温泉の内湯につかってのんびりしていたら、隣に入った見知らぬおじさんが話しかけてきた。雑談をするうち、その人はもと若宮町にあった「新井林造製糸」、通称「アラリン製糸」という工場の息子さんだということがわかった。いまは若宮町を離れ富士見町に暮しているという。なんと、その日に探し回っていた製糸の身内の人とピンポイントに出会ったのである。こういう偶然ってあるのだな。(どういうわけか、私が風呂に入っているとけっこういろいろな人が話しかけてきて、貴重な情報が入手できることがあるのは不思議だ。)

荒林製糸は従業員30人の国用製糸工場だった。当時、製糸工場には製造する生糸によって区分があった。輸出用の生糸を製造するのは「機械製糸」と呼ばれ生糸産業の花形である。「国用製糸」はその名の通り、国内向けの生糸を製造する工場で、機械製糸会社からは格下と見られていた。

ただ、そのおじさんの話によれば、国用製糸は輸出用の生糸をまったく作れなかったかというとそうでもなく、21デニールの細い規格の生糸は輸出できなかったが、42デニールの生糸ならば国用製糸の生糸でも輸出できたそうだ。

そのおじさんは、昭和37年に父親の製糸工場の経営にかかわるようになったが、中国産の糸の値段を知って製糸業には未来がないと考え、10年以内に製糸を辞めるようにさせた。廃業については父親には反対されたが、結果として財産を失う前に撤退できたことを、あとになって父親から感謝されたという。

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しばらくして、荒林製糸の跡を訪ねてみた。普通の住宅に見えるが、家の奥の屋根が高い部分は製糸時代の倉庫の建物の一部のようだ。住居部分にはいまでもお母さんが住んでおり、話を聞かせてもらえた。

繰糸場があったのは、この家の北側のいまは漬物屋になっている敷地。建屋は2棟あり、それぞれ本糸と玉糸を作っていたという。「本糸(ほんし)」とは糸の太さにムラがないきれいな生糸、「玉糸(たまいと)」とはわざと太いところを作って素朴な風合いを与えた生糸のことだ。

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「玉糸」を作るのには「玉繭」という繭を使う。ひとつの繭に二頭のカイコが入っているものだ。よく勘違いしている人がいるが、「玉糸」は純度100%の玉繭から製造するのではない。あくまでも、普通の繭が主で玉繭を一定量加えて繰糸したものなのである。

お母さんは工場において、繭を買い付けたり配合したりする仕事をしていた。そのため玉繭の配合についてはいまでも正確に記憶しておられた。新林製糸の玉糸は、本繭(A級繭)1に対して、玉繭2、のび(B級繭)3の割合で配合していたという。

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悪い繭の比率が増えると、糸が出にくくなり、繰糸がやりにくくなる。そのため工女さんからは「本繭の比率を増やしてくれ」といつも言われていたそうだ。工場は朝6時から動き始めるので、それより早くボイラーの準備をしたという。使っていた繰糸機は諏訪式で、集緒器というボタン状の部品がついていたそうだ。

そのころは繭の仲買人が毎日来て、現金を渡すと農家から繭を買い集めて来てくれた。繭は夜に届くことが多かったそうだ。

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板鼻や安中から繭を買い付けることもあった。そんなときは夜に前橋駅まで繭を取りに行き、深夜0時ごろから朝5時ごろまで乾繭した。乾繭はなるべく繰糸場が休みの日にやったという。

嫁いだころは玉糸しか作っていなかったが、途中から本糸も作った。だがその後、日産の自動繰糸機を導入したがうまく製造できず、機械を動かせば動かすだけ赤字になるようになったので、他の家よりも早めに工場をしめたのだそうだ。

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製糸業をやめる前に、自分の工場で作っていた玉糸が使われている「岩代紬」を何反か記念に買った。福島県の岩代の織物だろうか。真綿の産地なので、ヨコ糸が岩代の紬糸、タテ糸が前橋の玉糸の織物だったのではないか。

いま「前橋の玉糸製糸が作っていた糸を見てみたい」と言ってもなかなか現物を見ることができない。これは前橋の玉糸を知るための貴重な織物なのだ。

こちらのお宅で伺った話で、前橋の玉糸製糸のことがだいぶ理解できるようになった。貴重なお話をありがとうございました。

(2013年03月03日訪問)