備中松山城

山の尾根に石垣を積んで築かれた城。

(岡山県高梁市内山下)

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高梁市の市街地の北側にそびえる臥牛山。その山頂付近に備中松山城がある。愛媛県松山市にも松山城という山城があるため、混同を避けるため備中松山城と呼ぶのが普通である。高梁城という呼び方もある。

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市街地からの標高差は約400m。中腹の駐車場から有料のシャトルバスが出ているので、最終的に自分の足で登る高さは70m程度。

シャトルバスは15分間隔で運転しているが、帰りは目の前でバスが出てしまい、15分待つよりはと徒歩で駐車場まで降りた。

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備中松山城のように山頂にある城を「山城」という。戦になったとき防御には適しているが、日常の生活には不便なため、城主は平時は山麓の御殿に居住し、戦時にのみ山頂に立てこもるという使われ方だったという。

だたしこの山頂にはたいした面積もないのであまり多くの兵は入城できなかったろうし、水の便も悪いことから長期間の篭城(=持久戦)はできなかっただろうと想像する。

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それでもこの高所にこれだけの石垣を築いたのだから、その執念には驚かされる。狭い尾根にそびえるように小さな曲輪が造られている。

単に短期間、敵を防ぐだけならば土坡で築いた城でもよさそうなものだが、ここまで恒久的な構造物を造るのは、偏執狂的な感じさえしてしまう。

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こうした偏執狂的なこだわりに意味があるとすれば、自軍の兵士が「これだけすごい要塞に立て篭るんだから、オレたちは負けない」と感じ、士気が下がらないことだろう。それはおそらく篭城にあたってかなり重要な部分だ。

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天守閣への通路は幾度も屈曲していて、そのつど曲輪や櫓から攻撃できるようになってはいる。

城好きの人たちが城のなわばりを見てよく言うのは、「あっちから来たら、こっちから矢を射かける、だから防御は完璧」みたいな説明。安っぽい映画のシーンみたいに、雑兵が正面からバンザイ突撃してきてバッタバッタと倒れていくようなイメージで語られることが多い。でも実際の攻城戦では盾で隙間なく防御した軍団が隊列を組んでじわじわ進んでくる感じだったのではないか。

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詰まるところ、天守閣を敵軍に包囲される状態になったときは、もう城主は切腹の準備に入らなければならないはずだ。天守閣はその時間をかせぐだけの防御力があれば十分な施設ではないかという気がする。

決して、天守閣から矢や鉄砲を放って敵を撃滅する、という施設ではないのだ。

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もっとも天守閣は、戦闘用の要塞というよりは権力を誇示するための広告塔という側面があるから、立派に造営するに越したことはない。

いまでこそ周囲の樹が野放図に伸びて市街地からは見えなくなっているが、当時は山頂に樹がなく、天守閣が城下町や街道からよく見えたのだろう。

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備中岡山城の天守閣は二層二階、入口の廊下(下屋)を地下一階とみなせば合計三階。

城の規模を表すのに○層○階という言い方がある。このように外見でわかる屋根を数えた「層」と、中二階のような内部のフロアも含めて数えた「階」を併記する。たとえば、五層六階というように外見より内部の階数のほうが大きい場合が多いのだが、この天守は見た通りの二層二階。

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天守閣としてはかなりつつましいものだ。平地にある城(平城)の櫓くらいの感じ。

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日本には明治維新後の廃城令と太平洋戦争の空襲を経ても残っている天守閣が12ヶ所ある。備中松山城はそのうちのひとつで、国指定重要文化財に指定されている。

備中松山城はそれら12城のうちでもっとも小さい天守閣であり、同時に、唯一の現存する山城の天守でもある。

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ただし、内部の様子を見ると、かなり新しい感じがする。なんの先入観もなくみたら、戦前か大正くらいかと思えるような建築物だ。

実際、この建物は明治維新後に放置され、昭和15年に修復されたという。放置されたときどれだけ荒れたかはわからないが、もし60年以上放置されていたとすれば廃屋に近かったはずで、修復にあたって相当の部材が入れ替わって、新築に近い状態だったのではないか。

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だとすると、現存する天守と言いながら、実は再建した天守なのでは、と内心思ってしまう。

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建物の隅に分かりにくいような鉄砲狭間があった。

外から見てもわかりにくいように作られている。

こういう瑣末なギミックに、城を設計した人のオタク精神がかいま見える。

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石落とし。

確かに、石垣をよじ登っている最中に頭の上から石が落ちてきたらひるむけれど、天守閣の石垣に取りつく兵など実際いるのだろうか。

ほとんどは本来の玄関に殺到すると思うのだが。

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本丸の裏手に回り込むことができる。

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こちらにも二層二階の二重櫓がある。

これも昭和3年に修復されたもので国重文。

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二重櫓は外から見るだけで内部には入れなかった。

備中松山城にはこの天守閣一帯だけでなく、さらに北の山の尾根にそって空堀など古い遺構があるようだが、そちらへは行かなかった。

(2003年05月03日訪問)