河山鉱山跡

鉱山町の面影を残す鉱山。

(山口県岩国市美川町小川)

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次の目的地を目指して車を走らせていたら、巨大なホッパーの基礎が並んでいるのが目に入った。

砕石工場でもあったのか? と思ってよくよく見まわしてみると、、、

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あれ? 何かのタンクを置いたような基礎も見える。

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さらに見渡すと、シックナーと思われる構造物もあるではないか。ここは鉱山なのだ。

「シックナー」は鉱山などで、採鉱した鉱石の親水性の違いを利用して、水中で有効な成分を分離するための設備だ。撹拌する装置であるため、往々にして巨大な円形をしているので見分けやすい。

写真で基礎の下の部分は赤茶色の泥が溜まって、沈殿槽になっている。鉄分の多い鉱石を産した鉱山だったのだろう。

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近くまで行ってみた。

ホッパーの下部は散水車の車両基地になっている。会社などの所有地になっている可能性があるので、敷地には入らず遠巻きに見る。

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これはさっき遠景で見えたタンクと思われるものの基礎。

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その横には、なんとインクラインの跡があるではないか。インクラインというのは、大型の斜行エレベーターである。斜面を移動するリフトと言ってもいいかもしれない。

漫画『AKIRA』の冒頭で、大佐がアキラ封印設備の地下に降りていくときに乗ってる乗物といえば、具体的なビジュアルがわかると思う。

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インクラインは鉱山遺構の中では私が最も好きな要素のひとつだ。

ある種、廃線跡のような場所でもあり、廃線ファンの琴線にも触れそう。草に埋もれる階段がいい味を出している。

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そして鉱山で私がもう一つ好きなものがコレ、ズリ山。

「ズリ」とは鉱山から出た石を選鉱して、不要になった捨石のこと。「ズリ山」はそれを積み上げてできた地形だ。

北九州の炭鉱地帯ではボタ山とも呼ばれる。

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ズリ山マニアって結構いるんじゃないかと思う。

これなどは小さな規模のものだが、大きなズリ山は自然地形の山と見まがうほどの大きさがある。地下の坑道はその規模を実感しにくいが、そのズリの量を見ると、多くの人は「よくも掘ったものだな」と感動するはずだ。

また、ズリは有機物をほとんど含まないので、森林遷移の原始的な段階が観察できる場所でもあり、その点でも興味深いものだ。

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選鉱場の一部ではないかと思われる建物が残っていた。

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見まわした限り、鉱山本体の上屋が残っているのはこれだけのようだ。

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トロッコのレールが建物の中から出ていた。

レールの先は坑道につながっている可能性もある。

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かつてはこのような建物が、奥に見える斜面を埋め尽くしていたのだ。

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道路の反対側には、遊興施設だったのではないかと思われるしもた屋があった。

鉱山の全盛期には金回りのよい男たちがたくさんいたので、それ目当ての料亭もあったろうし、映画館、ビリヤード場といった遊び場もあったに違いない。

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その建物の裏側には川が流れていて、対岸は鉱山住宅が並んでいたエリアだ。

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対岸へは武骨なトラス橋が架けられている。

おそらく山に通勤するための近道として鉱山会社が設置した橋だったのだろう。

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対岸へ渡ると、当時の鉱山住宅と思われる建物がまだ残っていた。

坑道や選鉱場などの本体施設だけでなく、こうした住宅も含めて全体が当時の産業の姿を伝えるものであり、貴重な存在だと思う。

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この町で、鉱山で働いていたという老人に出会い、話を聞くことができた。

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ここは河山鉱山という鉱山だったという。

江戸時代の初期に発見された鉱山で、銀、銅、鉄などを産した。

操業時には1,300人もの従業員が働いていた。夫婦と子ども2人の家族構成だったとしても、関係者だけで5,200人。この山あいの小さな谷に、ちょっとした村に相当する人口があったのだ。

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老人が働いていた当時の主な採掘対象は硫化鉄だったという。硫化鉄からは硫酸アンモニウムを分離して、いいわゆる「硫安(りゅうあん)」という製品になった。

植物が生育するのに必要とされる三大元素、窒素(N)、リン酸(P)、カリウム(K)のうち、窒素は植物の生育に最も重要な元素である。硫安は、名前はおどろおどろしいが、窒素を補給するための即効性がある安価な肥料であり、いまでも利用されている。

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斜面に砕石施設や選鉱場が並び、上段の施設から下段の施設にかけて石を砕いて小さくしていた。そうして出た鉱物から銅鉱を分離していた。有効な鉱石は沈殿させ、ぽろぽろになるまで水分をとってから出荷した。

この鉱山には製錬の設備はなかったので、鉱石のまま運び出した。現在の錦川鉄道(旧国鉄岩日線)は美川町の鉱山から岩国へ鉱石を運び出す路線だったのだろう。

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トラック輸送が主流になると、36台のトラックが岩国市の新港(しんみなと)まで1日2~3往復したという。銅鉱石は大分県の佐賀関製錬所に運ばれた。アフリカのコンゴにも輸出したとそうだ(聞き間違いかも知れない)。

鉄鉱にくらべると銅鉱は少量しか産しなかったという。

というのも、銅鉱は高価なので、会社が本当に困ったときのために鉱脈に手を付けずに残しておいたのだという。

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鉱山の経営が悪くなりいよいよ閉山が見えてきたとき、最後の銅鉱脈を採掘することになった。

ところがその工事を前に大きな崩落が2回発生した。そのときは坑道から吹き出した土砂ほこりが、いまの県道まで達したという。

大きな人身事故にはならなかったが、労使交渉でこのまま掘るのは危険だということになり、銅鉱脈には手を付けずに閉山することになった。昭和47年(1972年)のことだった。

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かつては建物が建ち並び、夜には山一面に電灯がともり、夜通しゴトンゴトンという砕石の音が聞こえていたそうだ。

いまの静かな山里の風景からは想像しにくいが、かつてここに壮大な工業施設と街が存在したのである。

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1kmくらい離れたところにも鉱山住宅があると聞いたので見に行った。

県道と川に挟まれた細長い敷地に3階建ての集合住宅が建っていた。山深い場所には似合わない建物だ。

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この建物のほかにも3階建ての集合住宅が各所に合計10棟以上あったそうだ。

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現在は人はもう住んでいないようだ。

取り壊されるのも時間の問題と思われる。

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すぐ近くにあったかまぼこ屋根の建物。

これも鉱山時代の購買所とか体育館といった福利厚生施設だったのではないか。

(2004年05月01日訪問)