奈良の東大寺が建てられたのは奈良時代の中ごろ(752)だった。その最初の大仏殿は400年以上建ち続けたが、平安時代末期に戦乱で焼失(1181)してしまう。その後、ただちに大仏殿の建て直しに着手し、鎌倉時代初期(1195)には再建された。この再建を指揮したのが、宋で建築技術を学んだ僧、重源だった。
巨大な大仏殿の通し柱を立てるには大きな材木が必要だ。それはどこでも手に入るものではなく、どこの山のどの立ち木を使うというように、巨木を探索し目星を付けなければならない。重源が目をつけたのが山口県の杉だった。
その伝説はいまでもこの地域に残り、町おこしの箱モノもごらんの通り、東大寺の南大門をイメージした外観になっている。
東大寺の大仏殿、南大門などの巨大建築、ほかの諸堂を再建するには膨大な用材がいる。その量は立ち木数万本にもなるという。
その用材を効率的に都に運ぶのには水運の利用が不可欠だった。舗装道路やトラックがない時代、材木を奥山から運ぶには川に流したというのは多くの人がおぼろげに知っていると思う。
だが、実際にはそれは簡単な話ではなかった。川の水量が常に丸太を流せるほどはなかったからなのだ。梅雨などの増水するときを狙って流すため、山で木を切り倒してから丸太が河口地域に到達するのに1年かかるというのもザラだった。これは大昔の話ではなく、昭和初期ごろまでそんな調子だったのだ。
浅瀬区間には川の横に狭い用水を作り、そこに川の水を集中させることで丸太を通過させた。それが「
関水はかつて流域に100以上あったが、確認できるのはここだけだという。
ここ佐波川の関水は、幅3m長さ45mの規模で、川床は石畳になっているとのこと。
だが夏草が茂り、どれがその関水なのかよくわからない。これがそうなのか?
確かに古い石積みがある。鎌倉時代に作られたものが、これまでの増水などでよくも壊れずに残ったものだと思う。
もうひとつ怪しい細い堀がある。もしかするとこちらがそうなのかも。
舟運の高瀬舟を通すためにもこうした用水路が使われたこともあった。
上りの航路では幅の狭い水路に舟を通し、舟に綱をつけて牛馬や人力で引いた。こうして用水路にすれば水際を歩けるからだ。
(2003年09月04日訪問)