諏訪フランス座

ストリップの帝王と呼ばれた瀧口義弘が晩年を送った小屋。

(長野県諏訪市湖岸通り)

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片倉館から北東方向へ200mほどいった四つ角に「ヌード劇場」という過激な看板のついた建物がある。ストリップ劇場「諏訪フランス座」だ。

ここではなぜストリップ劇場が気になるのか書いてみたい。

私が徳島で映画館巡りを始めたのが2004年、それから約3年かけて徳島県内の映画館跡を巡ってみて、私は映画館が好きなのではなく芝居小屋が好きなのだと気がついた。

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映画が普及する以前、徳島にはたくさんの芝居小屋があった。そこでは、浄瑠璃、浪曲、大衆演劇などが上演されていたという。

正確に文献を当たったわけではないけれど、常設の小屋は江戸時代からあり都市部や門前町などに存在していた。徳島の村々でははじめは野外の屋根のない場所で芝居が上演され、常設の芝居小屋ができたのは明治の終わりから大正ではなかったかと思う。そうした小屋の上演を支えていたのは、旅芸人たちであった。

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特に内容がわかりやすく人気があったのが大衆演劇で、昭和初期の戦前に第1次黄金期、戦後から昭和30年ごろまでが第2次黄金期で、劇団数は全国で700にもなったという。

だがトーキー映画、そしてテレビの普及によって、芝居の人気はなくなっていく。多くの芝居小屋は映画館にくら替えして生き残りを図った。私が調べたとき徳島県内には7ヶ所の芝居小屋の建物が残っていたが、ほとんどが最後には映画館として閉館している。

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芝居小屋が映画館に置き換わって、大きな影響を受けたのは大衆演劇の劇団だけでなく、その興行を手配していたプロモーターたちだった。

もともと地方地方で行われる興行を仕切っていたのはいわゆる香具師(やし)と言われる人々だった。有り体にいってカタギの人々ではない。大衆演劇だけでなく、浪曲や流しの演歌師、見せ物小屋やサーカスまで、地方ごとにあらゆる興行を支配していた。手配師を通さなければ小屋は演者を受け入れることができなかったし、演者も勝手に小屋を回ることはできなかった。

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手配師たちが大衆演劇の凋落後に見いだしたのが戦後に勃興したストリップの興行だった。踊り子たちもまた旅芸人だったので、手配師たちがそれまで作ってきた支配構造をそのままにストリップ劇場へ持ち込むことができたのだ。また劇団の一部にはストリッパーへ職業替えする人々もいた。

当時テレビが普及しても女性の裸体を見るのは容易ではなかったから、ストリップには高い需要があり、全国に300ヶ所ほどのストリップ劇場が営業したという。

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そうした香具師の界隈で活躍した瀧口義弘という手配師がいた。彼の一代記は『ストリップの帝王』という書籍で知ることができる。その瀧口が晩年、オーナーになって運営していたのがこの諏訪フランス座だった。

だがそのストリップもインターネットの普及で女性の裸体をいつでも見られるようになると急激に衰退していく。このフランス座も2011年8月末に閉館してしまった。

当サイトではこれまでにいくつかストリップ劇場の建物を紹介している。その理由は、ストリップ劇場が漂泊の職業集団と切り離せない存在であり、大衆演劇などを上演した地方の芝居小屋と地続きの存在だからだ。

映画館探しから始まった旅は、最後にストリップ劇場へと流れ着いた。この諏訪フランス座はその旅の終着点のような気がしている。

フランス座の建物は2016年に取り壊され、現在は駐車場になっている。

(2013年04月29日訪問)