美濃市にも著名な河港があるというので行ってみた。時刻はもう5時すぎ。この日は曇っていたので、木陰や家々の裏手には夕闇が忍び寄り、どこか寂しい雰囲気になってくる。まぁ、私の好きな時間帯ではあるのだが、だんだん写真を撮るのはしんどくなってくる。
河港のある場所の地名は「港町」。なんて分かりやすい名前だ。卯建の町並みがある市街地からは500mくらいの距離である。
市街地は河岸段丘の上にあり、そこからは車がすれ違えないような細い坂道を下りると、長良川の河原へ出ることができる。
河港には「住吉灯台」と水神様がある。灯台には裸電球がともっているが、写真ではちょっとわかりづらいかもしれない。
河港から河原へは荷揚げのための石垣が築かれている。文句のつけようのない立派な河港である。
上流から送られてくるいかだの集積場として栄えたというから、おそらく昭和初期までは実際に使われていたのだろう。川は今でも水量が豊かで、川面に立てば舟運やいかだ流しが行われた光景を容易に想像することができる。
河港近くの路地。胸が切なくなるような、懐かしい風景だ。おもわず見とれてしまう。
左手の家は崖に張り出すように欄干のある部屋がある。この部屋から月見でもしたらさぞ風流だろうと思う。そういう風雅を愛する人の家なのだろう。
ところで、長良川は四万十川と並んで“最後の清流"と呼ばれている。上流から河口まで本流にダムがないためにそう呼ばれているのだ。
実を言うと、私はこの河港の河原で長良川を間近に見るまで、その意味がわかっていなかった気がする。
私のように関東で育った人間にとって、大きな川といえば「利根川」とか「荒川」ということになる。
特に利根川では子供のころからよく遊んでいたし、ダムの連なる源流、スキー場や温泉地が続く上流、農業用水に取水され水の少ない中流、いくつもの都市の排水でよどんだ下流、それなりに川というのはこういうものだという感覚を持ってきた。その後知った関東近県の川も、みな似たような印象だった。
だから「清流」といえば、人里離れた山奥の渓流か、湧き水だけが流れている小川のような小さな川しかイメージできなかったのだ。
ところが実際に長良川を間近に見て、これが自分が知っている川とはまるで違うということに初めて気づいたのである。
長良川の上流部だって無人の山野ではない。他の川と同じように、下水道整備の遅れているいくつもの町村の間を流れ下ってくるのである。
にもかかわらず、長良川は豊かな水量をたたえ、まるで人間が存在しないかのような自然のままの川の姿を見せていたのである。ダムがないっていうだけで、川はこれほど違うものなのか。この奇跡は写真で伝わるものではないかもしれない。
恥ずかしながら私は「清流」という言葉を聞いても、本州にまだこれほどの川があるということを想像できなかった。言葉というものが、いかに自分の体験に左右されてしまうかというよい実例だろう。
(2000年04月30日訪問)