3日目の予定を終えてあとは宿を探すだけとなったが、近くの高梁川の西岸に舟運の遺構があるというので立ち寄ることにした。
場所は船穂町水江。かつて、倉敷市玉島港から備中松山(現高梁市)を経由し、最終的には新見市まで舟が通じていたようである。玉島⇔松山のルートのうち、ここ水江から玉島港までの9kmが高瀬通しと呼ばれる運河である。
土手には水門が設けられている。これを「一の口水門」といい、300mほど下流の「二の口水門」と合わせて水位を調節できる
ここに3人乗りの高瀬舟(船底の浅い和船)が荷を積んで登り下りしたのである。
水門小屋の内部。
たまたま地元の古老が通りかかり、いろいろと話を聞かせてくれた。高梁川はかつて上流で二本に別れ、一方は水島港のほうへ流れていたがその川筋は埋め立てられ、現在の高梁川に一本化されたということであった。
土手の左側が高梁川、右側が高瀬通しである。写真の奥の山が迫っているところに二の口水門がある。水門と水門の間は貯水用の水路、船だまりになっていたと思われる。
ここで生じさせていた水位の差は2~3mほどではなかったかと思う。
船だまりの様子。奥には一の口水門が見える。
時間はかなり遅くなってきた。ほとんど宵やみの中で水門にすがりついて写真を撮っていると、下校中の中学生が「こんばんわ」と挨拶をして通る。辺りはすでに真っ暗なのに、礼儀正しい生徒たちだった。
二の口水門を下流からみた様子。
左上には通路があり、土手を通り抜けることができる。
土手の通路を抜けると、防災倉庫があった。
高瀬舟では上りでは船頭が竿で舟を押し、残りの二人は岸辺で綱を引いていた。高梁川のような大きな川では川岸が整備されていないので舟を引くのも大変だ。そこでわざわざこうして大きな川の脇の用水路を使って舟運を行なっていたのである。
ここから見える橋はかつて跳ね橋で、舟が通るときに跳ね上げていたのだという。
高瀬川に沿った道がどこまでも続いている。旅情を誘う風景に、宿のことなどすっかり忘れてしまう。
かつて高瀬舟が往来し、最後には玉島港へと至るだろうこの道を、行けるところまでたどってみることにしよう。
しばらく行くと川筋は新幹線の新倉敷駅付近で途切れていた。駅前は再開発されて古い面影はない。
玉島港を擁する倉敷市玉島地区はかつての玉島市、新倉敷駅も玉島駅であった。新幹線の駅のある市なら安宿を見つけるのは容易だ。玉島の町のはずれのビジネスホテルに泊まることにした。旅も3日目ですこし疲れてきたので和室を希望したら、ハナレの一軒屋のような部屋に案内された。四人家族でらくらく泊まれるほどの部屋だ。値段はシングルとあまり変わらないのはウレシイ。これで今夜は思う存分手足をのばして寝られる。いちど外出し町内で夕食をとってから、駅前のスーパー銭湯で旅の垢を落とす。港町玉島の泊まりは旅疲れの癒えるくつろぎの夜だった。
(2001年05月01日訪問)