鉱石乾燥小屋から青倉の集落を見た様子。
東向きの傾斜地に並ぶ建物のほとんどはかつての養蚕農家だ。このあたりでも養蚕は盛んに行われたのだろう。
きょうはその養蚕に関係する施設「稚蚕共同飼育所」を確認してみたい。
養蚕の過程でカイコの幼虫がまだ小さい状態(3齢幼虫まで)を
養蚕は明治~戦前まで日本の近代化を支えた重要な産業であった。しかし現在の日本の養蚕業はもう崩壊寸前、いやすでに崩壊したと言えるかもしれない。今ではまだ最後の高齢農家が養蚕を続けているが、その世代を最後に日本から従来の意味での養蚕文化が消える日は近い。
養蚕にまつわる物件として、養蚕農家、製糸工場、倉庫などの施設は一部文化財として保護が始まってはいる。しかし、それでは意匠的にすぐれたごく一部の建築物の記録が残るだけで、それが養蚕業の一般的な姿を伝えることはない。本サイトでは養蚕業の一般的な姿を後世に伝えるため、今後は桑畑、稚蚕共同飼育所を産業遺跡の範疇として扱うこととする。子供たちに「むかし、桑という植物を畑で育てていたんだよ。」と写真で説明しなければならない時代はすぐそこまで来ているのである。
いまのところ積極的に稚蚕共同飼育所を訪ねてまわるということはしないが、もし立ち寄った先にあれば、写真に納めておこうと思っている。
その第一弾が土谷沢の稚蚕共同飼育所だ。
ドライブマップを見ると、白石工業の石灰乾燥小屋からすこし道を進んだところに稚蚕飼育所という文字が見られる。
地図の場所にあった建物がこれ。
稚蚕共同飼育所の一般的なイメージとしては、ブロック造の密閉型の建物が浮かぶが、ここはガラス戸と塩ビ波板の温室のような建物であった。温度管理はそれこそ1度の精度で行なうはずだから、密閉型の建物の方がやりやすいと思うのだが。
(もしかしていきなり建物を間違えているかも‥‥)
中を覗いて見ると、桑つみ籠や蚕箔などの養蚕道具がしまわれている
この棚はコンニャク芋を保管するものかな。
後日、調べてみるとこの施設はやはり稚蚕飼育所ではなく、蚕室(壮蚕を育てるための小屋)だったようだ。稚蚕飼育所はかつてこの建物から近くの道の反対側にあり、このときすでに更地になっていた。
ページ右上の地図は、たぶん本来の稚蚕飼育所があったと思われる場所にマーカーを立てておく。
(2002年05月03日訪問)