場所は国道362号線を三ケ日町から豊橋市に抜けるトンネルを抜けてすぐの場所から林道を300m ほど分け入ったところである。周囲はまったく人煙の気配の感じられない山林だ。
当初発見するのにてこずるのではないかと心配していたが、道標が立っていたためすぐに場所は判明した。
林道から石段を登るとすぐに洞窟の入口に到着する。
洞窟の種類としては石灰岩洞窟(つまり鍾乳洞)なのだが、観光スポットの種類としては初期~中期縄文時代の岩陰住居遺跡と分類されるべきであろう。岩陰住居跡というのは、縄文時代の住居の一種の遺跡である。
内部は最深部までの全長は 70m ほど。左のような構造になっている。入口に柵などはなく入洞は自由だが懐中電灯は必須。
洞窟には埋蔵金が隠されておりそれを守る武者が住んでいたとか、穴の奥は長野の善光寺までつながっているという伝説があるそうだ。
ところで縄文時代前期というと、狩猟と採集の時代で獲物を求めて移動していたというようなことを学校で習ったような記憶もあるが、少なくとも土器を作るような時代になればそうそう移動していたとも思えない。さらに日本の豊かな自然環境を考えれば、ひとところで獣や魚や山菜や木の実を取り尽くしてしまうなどということはなかっただろうから、無土器時代にさえそれほど移動する必要はなかったのではないかと私は想像している。
だがひとつところに定住してたとしても、立ち木を利用したテントのようなものや、マタギ小屋のような住居では痕跡が残らないから、竪穴式住居以前に人々がどんなところで寝泊まりしていたかは今となっては知るよしもない。
しかし洞窟の入口は風雨にさらされないため、縄文時代の生活の痕跡が他の場所に比べて残りやすい。そうして残された縄文時代の生活の痕跡のことを岩陰遺跡と呼ぶ。
(入口付近を洞内からみたところ。)
どうも私たちは原始時代に対して穴居生活というようなイメージを持っている。
だが実際には穴居生活をしていた縄文人というのは、終戦後に防空壕に住み着いた浮浪者と同じ程度に珍しい存在だったのではなかろうか。あるいは家を作るのを面倒くさがった怠け者の縄文人が洞窟に住んだのではないかなどとも想像できる。日本の気候風土において穴居生活に何らかのメリットがあったとしたら、勤勉な縄文人はみなこぞって横穴を掘って住んだだろうが、そういう話も聞かないからだ。
洞窟の内部は湿度が高かった。ストロボを焚くと水蒸気に光が反射して白い斑点となって写ってしまう。こうした洞窟内できれいに写真を写すには、撮影時に息しないということと、自分がこれから進む先の方向の空気が澄んでいる場所を狙って撮影するというのがミソだ。
二次生成物も見ることができた。床面は水気をおびた粘土が積もっていて、靴底が粘土でどろどろになってしまった。小さな支洞もあるので、しぶとく探検すれば意外に奥深いかもしれない。
近くには別の水穴という洞窟もある。
小さくて普通に入洞不可能だが、勢いよく地下水が湧き出している。
その水を汲みに来ている家族がいた。なんとなく中京地区では湧水に水くみに来ている人が多いような気がする。
ポリタンクで湧水を汲む人に願いたいのは、全ての水口に自分のポリタンクを並べるのではなくて一つくらい空けておいてほしいということ、あるいは、あとから来た人がコップ一杯くらいの水を汲むのに気持ち良く水口を譲ってほしいということだ。
ところがポリタンクを持って来るような人に限って、そういうこの出来ない人が多いのである‥‥。
(2001年10月06日訪問)