群馬県の南部を西から東へ横切り、栃木県まで続く古い街道がある。江戸時代に朝廷の勅使が京都から日光へと派遣されたときに使った街道で例幣使街道と呼ばれる。京から高崎までは中山道を通り、高崎の倉賀野宿から分かれて日光までの13宿の街道である。
中山道の木曽や信州の宿場のように旅籠が建ち並ぶような風景こそ残ってはいないが、それでも心して見ればはっきりと街道のたたずまいを感じることができる。
その例幣使街道が境町に入り広瀬川を渡ったあたり
下武士の富士塚は例幣使街道に面して立っていた。ちょうど江戸の五街道に一里塚があるような感じだ。塚には大きなクロマツがそびえている。
塚の西側には稲荷神社がある。
登山口は稲荷神社の側にあり、短いながらもなんとか登山道と認知できる構造がみられる。
ただし、登山路は1本だけのようなので、同じ道を通って下山するしかない。
登山道の途中には入定窟のようなウロがあった。
山頂には「御嶽山座王大権現」と書かれた石碑が建っている。
富士塚を裏側からみたところ。富士塚の施工法は大別して3通りではないかと思われる。神社の境内の平地に土盛りや溶岩を積み上げて築かれるもの、古墳などを改造したもの。自然丘陵の頂上部や斜面を利用したものである。
下武士の富士塚はすそ野部分の斜度が緩く境界もあいまいだ。確信はないが、古墳などの再利用タイプではないかと思う。
(2004年08月31日訪問)