いよいよこの日の本来の目的地、新田町の湧水群へと向かう。場所はいわゆる新田荘と呼ばれる地域だ。新田義貞を排出した豪族、新田氏の荘園だった場所である。新田荘はこれらの湧水がなければ成立しなかったであろう。湧水が集中するのは上の地図で東西に走る太い道(上が県道39号線、下が県道2号線)にはさまれた東西 5 km ほどの範囲である。新田町は赤城山南面、渡良瀬川の扇状地地形である。湧水はすべて海抜 55~60 m の位置に分布していることから、これらの湧水は伏流水であることがわかる。
実はここを訪れるのは2度目。前に訪れたのは1993年の10月末。ほぼ11年経っていることになる。さすがに記憶が薄れていて、友人にナビをしてもらって迷いながらの探索となった。なお、前回の様子も参考までに紹介しようと思う。本文中で黒地に白文字の部分が1993年の様子である。
また、湧水にはそれぞれちゃんとした名前がついていると思われるが、聞き込みをしなかったため近くの字をとって勝手に命名した。正しい名前をご存知の方は御一報お願いしたい。
最初に訪れたのは上中の湧水。ここを紹介すべきかどうかは正直なところ迷った。地図で(1)の地点を見ると池があって、そこから川が流れ出ているように見える。
だが1988年の地形図ではこの場所には池は存在していないことから、この池は(多少の湧出はあるとしても、)湧水ではなく溜め池ではないかと思われる。
実際の湧水点は、溜め池から 100m くらい西の果樹畑の付近と思われる。写真はその果樹畑から流れ出ている川の痕跡。
最初からいきなり悲しい結果となったが、ここは前回の訪問時にも枯れていたので、水路跡が残っていただけでもよしとしたい。
水路跡の東寄りに葦が茂っている場所があるので、まだ多少の湿り気は残っているのだろう。
この葦の茂みで草刈りをしている人がいたので尋ねてみると、この土地は町が親水公園にするために買い上げた土地で、そのための草刈りなのだとか。その人が言うには、上写真の水路をかつて西から水が流れたらしいが、今後も本当に流れることがあるのか半信半疑の様子だった。
前回訪問時。
1993年の訪問時にもこの茂みはあって、やはり水は涸れていた。葦ではなくセイタカアワダチソウが茂っていたから、今よりも乾いていたかもしれない。
(2004年08月31日訪問)