板橋稚蚕共同飼育所。
この日最後に立ち寄った物件。この日は、粕川より西側の飼育所だけを見るつもりだったが、どうしても気になる物件があったので、最後に粕川を渡った東側の板橋という字へ向かった。
この飼育所は現在は豚小屋として使われていて、以前に見かけたとき、稚蚕飼育所の遺構かどうか判断できなかった物件だったのだ。この4日間の飼育所巡りで培った眼力でもう一度見たら、どう見えるものなのか試してみたくなったのである。
この建物には飼料用のサイロとか、豚をトラックに乗せるためのタラップなどが増設されていて、豚の飼育のための機能が目立つ。
逆に、養蚕の機能を感じさせる部分はほとんどない。
だが改めて見ると、高窓や出入口の配置などから、いまなら100%の確信をもって稚蚕共同飼育所の遺構だと判断することができる。
写真の側面のタタキの部分には更衣室があったこともわかるし、そう思ってよく見れば、壁に長押が残っていて、服を掛けたフックにも気がつく。
以前にここを訪れたときには、中から豚の鳴き声が聞こえる建物の回りをウロウロするばかりだったことをはっきり覚えている。
あの時は、いま見えている多くのものが、何も見えてなかったのだ。ものの見え方がこうも変わるものかと、自分でもおかしいくらいである。
これで赤城山南麓の稚蚕共同飼育巡りはひとまず終わりだ。
飼育所巡りを始めるまえには、ほとんど何の予備知識もなかったが、この4日の旅で稚蚕飼育所の見方がひとまずはわかってきた。またレポートを執筆する過程でも、自分の中でいろいろな推理もし、新たな知識も加わった。最後に、赤城山南麓の稚蚕共同飼育所の概要についてまとめておこうと思う。
■概要
赤城南面の稚蚕共同飼育所の歴史は、昭和25年から昭和55年くらいまでと考えられる。飼育所には、飼育室、宿直室(宿直室)、挫桑室、貯桑室という部屋がある。この構成は飼育方式や年代に関わらず共通である。更衣室とトイレは、最初のうちは建物の外部に造られたが、昭和40年の前半ごろには建物の内部に取り込まれた。暖房(あるいは冷房)の方法は、年代を下るにつれて高度になったが、貯桑場が地下の低温を利用するという点はほ最後まで変わることはなかった。飼育方式の変化は、土室育→電床育→大部屋方式という変遷をたどった。
■土室育(どむろいく)時代 昭和25~35年くらい
稚蚕共同飼育の最も古い形態で、蚕箔が1列しか入らない小型の室(ムロ)を連ねた飼育室での飼育方法。群馬県蚕業試験場が考案したという。建物の外観は木造下見板、屋根の換気は越し屋根、室の壁は土壁である。加温には火鉢を用いたため、外壁に酸素取り込み用の土管が突き出ていることで判定できる。赤城南麓には少なくとも2件の遺構がある。
■ブロック電床育(でんしょういく)時代 昭和35~45年くらい
軽石ブロック積みの小部屋の飼育室で、蚕箔が3列入る中型のムロを連ねた飼育室での飼育方法。旧宮城村で考案されたという。建物の外観はブロック造で、建物の外壁はムロの奥壁と一体である。屋根には換気塔が並ぶ。平面は長方形で、たいていは短辺に配蚕口がある。配蚕口の反対側には宿直室/挫桑場があり、その地下は貯桑場になっている。間取りを横に並べて、ひとつの屋根を掛けた2連型もあるが基本構造は同じと思われる。ムロの戸は紙張りとベニヤ戸があるが年代との関係は不明。ムロの下部は発泡樹脂断熱材の場合と床砂を敷く場合があり、床砂のほうが古いと思われるが未詳。ブロック電床育は、養蚕がもっとも盛んだった時代の形式で、遺構の数も多い。
■大部屋飼育時代 昭和40~55年くらい
倉庫のような広い空間で棚飼いをする方式で、室内全体を気象管理する方式。飼育室は気密度が高く、土室育/電床育に見られる飼育室の高窓がなく、側壁に換気扇があることから、電床育とは外観で識別できる。内部構造としては給桑の機械化が進み、桑を運搬するリフト、回り寿司のように流れる蚕箔などが次々に開発される一方で、建物の機能は単純化して特徴がなくなっていく。この施設がある地域は、比較的最後まで養蚕が行われた地域と考えられる。
(2007年02月13日訪問)