鷺宮という字はかなり広いが、基本的には東横野台地の北側の斜面をしめる地域だ。先に立ち寄った野殿と同様、まだ桑畑が点々と残る養蚕地帯である。
金平居の飼育所は、県道から離れていて屋敷森の囲まれて気付きにくい場所にあった。外装も木造の古いタイプの飼育所だ。
赤城山、榛名山のすそ野ではほとんど見ることができなかった土室形式の木造飼育所が、きょうの行程では次々に見つかる。これはもう碓氷方面の特徴と言ってしまっていいだろうと思う。
建物はいまは個人の所有だが、持ち主は群馬を離れ、東京に移住した家だという。
外部には気抜きの土管があり、コンクリで埋められることもなく、昔ながらの木の栓がしてある。
つまり、この飼育所は土室炭火育の仕様で建てられたものだということがわかる。
近所の人に断わって、中をみせてもらった。
室は土室電床育で、片側10室の合計20室。大規模だ。
温度検知器はみあたらない。土室に窓が付いていることから、内部の温度計を読み取りながら電熱線を操作したのではないだろうか。
小屋組みは和小屋。
越屋根の内部を下からみた様子。
ヒモが垂れ下がっている。このヒモで回転窓を開け閉めできたようだ。
整然と並ぶ土室。
なんだかほれぼれする光景だ。
群馬県は富岡製糸場を世界遺産リストにねじ込む前に、こういうものを残さなければいけないのではないか。
土室で私がつねづね疑問に感じている「下部の四角い穴」だが、この飼育所では一度下に掘り下げてから室内に通じている。
ただし掘りは浅く、ここから炭を出し入れできたとは思えない。近所の農家で聞いても、火鉢や炭火で稚蚕飼育をした記憶はないということだった。
もしかしたら、建てられた当初から電床を前提とした土室だったのだろうか。
挫桑場のほうからみた、飼育室の全景。
挫桑場。
一般的にこのエリアには挫桑場と宿直室が並んで作られるケースが多いが、この飼育所では全面積が挫桑場に割り当てられている。規模が大きいので挫桑場も大きく取る必要があったのだろう。宿直室は奥のほうに見え、建物の外に建て増しされるようになっていた。
左手の戸の奥にも部屋が建て増しされている。あとで説明するが、3齢幼虫を飼育する専用の部屋だったとのこと。
貯桑場への入口が開いていた。
階段を下りてみる。
階段はあまり急ではなく、これなら桑の枝を抱えての上り下りもしやすかっただろう。
内部の様子。
棚があり、蚕箔が差し込んであった。
一般に、刈り取った桑の枝を保存するときは縦に立て掛けて並べておくのだが、この飼育所では寝かせて並べたのだろうか。
確かに積み上げれば天井までの空間が使えるので究極的には多くの分量を押し込むことができるが、棚の1段の高さも狭く、かなり使いにくかったのではないかと思う。
貯桑場の隣に造設された部屋。
ここでは3齢幼虫の飼育をしたという。
この飼育所では2齢配蚕と3齢配蚕の2通りを同時にやっていて、2齢で受け取る農家と3齢で受け取る農家があったという。稚蚕の共同飼育に参加するには、飼育所での作業に参加しなければならなかったそうで、年寄で家が遠い農家は、飼育に通うのがたいへんなので2齢配蚕を選ぶことが多かったとのこと。
初めて見る道具があった。
蚕箔だろうか。
3齢の飼育室を外から見たところ。
3齢配蚕が始まったのは、だいぶ時代が下ってからだということが建物の年代からもわかる。
ちなみに現代の群馬県の(農協経由の)配蚕は、すべて3齢配蚕であり、農家は飼育代金を払うだけで稚蚕飼育所に通う必要はない。
(2008年05月02日訪問)