大神山神社は神仏混淆時代には大山寺と一体の寺だったが、いまは完全に分離した宗教法人なのだろう。大山寺へ入るには山門で拝観料が必要だが、大神山神社だけであれば拝観は無料なのだ。
大山寺の山門の手前に左に分かれ道があり、石畳の参道が続いている。鳥居は柱が角丸四角形でめずらしい。
大神山神社の境内は大山寺本堂の背後にあるので、参道は大山寺を迂回するように左側を抜けていく。
参道の長さは500mくらいはあるだろう、かなり長く感じる。
私たちは先に大山寺へお参りしたので、本堂の裏側からショートカットして神社の参道の途中に出た。
しばらく参道を進むと銅製の立派な鳥居がある。
銅鳥居をすぎると左側に西楽院跡がある。現在は衆寮のようなものが残っているが、奥に崩れかけた石段が見えることから、このあたりにも神仏分離以前には寺の伽藍があったのだろう。
衆寮を過ぎると八脚門の向唐門がある。
この門は西楽院の山門だったものをこの場所に移築した際に、門扉の左右を取り違えて組み立てたため、門扉のかんぬきが外向きになってしまっているという。
二つ名を「後ろ向き門」という。
後ろ向き門をすぎるとすぐに狛犬がいる。
全身にイボイボがついたガマガエルというか、怪獣ガバラ的な狛犬だ。
最後の短い石段の先に、拝殿が見えてきた。
石段を登り切るとすぐ拝殿の向拝になっていて、撮影するのには引きが足らないので、横から全体像を見る。
江戸末期の再建だが、檜皮葺きの建物で本国重文に指定されている。
拝殿は異様に横に長く、これは修験道によくある
拝殿の後ろ側に回ってみると、凸型の幣殿があり、入母屋の本殿と接続している。
あえて言えば権現造と言えなくもない。
本殿部分も当然国重文。
拝殿の内部の一部が神厩になっている。
拝殿の柱は非常に太い。梁には極彩色が施されているのが見える。
本殿の左隣には弁天社がある。妙に新しく、取ってつけたような印象の末社。
大神山神社の左側には摂社の下山神社がある。
こちらも江戸末期の建築で国重文。
下山神社の狐。来待石製でだいぶ摩滅している。
左側はまだ原形をとどめていた。
下山神社も拝殿、幣殿、本殿が「エの字」になった権現造の一種である。権現造のうち、破風などの付き方がごちゃごちゃしてうるさく感じるものを当サイトでは「八
八棟造りは権現造の異名とする国語辞典も一部にあるが、当サイトでの八棟造りの意味合いは、権現造のような本殿・拝殿の平面図上の定義ではなく、
拝殿部分の垂木は吹寄垂木だが、部分的に2本と3本が混在する変則的な作り。
本殿。
続いて、大神山神社の境内の右側にある賽の河原と呼ばれる場所へ行ってみる。名前からして神社の付属要素とはいいがたく、寺としての大山寺の要素と考えたいが、経路的には神社から降りてゆく場所になる。
ここかは大山北壁を眺める絶好のポイントになっている。春先は新緑と残雪が相まって特に素晴らしい眺めだ。
大山は中国地方の最高峰とはいえ標高は1,729mしかない。中部地方や関東地方ではあまり人目を引かないくらいの標高といえる。だが成層火山で山頂部分が崩落を繰り返しているため、その山容は標高に見合わない迫力を見せる。
ここから見える尾根は現在は立入禁止になっているというが、行けるところまで登って間近で見てみたいものだと思った。
賽の河原と呼ばれるのは、大山から崩れた安山岩が溜まって河原になっている佐陀川の河原である。
石積みが見られるが、このくらいだと大水のときにすぐに流されて、永続的に残ることはないだろう。いつから発生した風習なのかは疑問だった。
この河原の下流方向には金門と呼ばれる岸壁が迫っている場所がある。
ここには僧兵荒行の岩と呼ばれる場所があり、修験道の行者がこの岩の上から飛び降りたという伝説がある。現在は河原だがもしかすると一時は淵だったこともあるのかもしれない。
(2005年05月04日訪問)