鳥羽井沼周辺の明治時代の地図を見ると、押堀が並んでいる。これらがすべて過去に堤防が切れてできた地形だ。ここは市野川と荒川の合流点で、川島領堤防の急所だったのだろう。
堤防が切れて押堀ができると、江戸時代の土木技術ではその沼を埋め立てて破堤前と同じ強度の地盤を造ることは簡単ではなかったのだろう。そのため押堀付近では沼をよけて堤防を再建するので堤防が膨らんでしまうのだ。
押堀は3つあり、鳥羽井沼、谷中沼、松永沼と呼ばれていた。現在は鳥羽井沼しか残っていない。
だがGoogleMapsの航空写真を見てみると、松永沼の押堀をよけて築かれていた堤防の痕跡はいまでも残っている。
その場所に行ってみた。写真の右側が荒川。
かつての歪んだ堤防部分は耕作地になることもなくいまも堤防が膨らんだ形のまま残っている。こうした膨らみがあれば市野川が増水したときにここだけ流れが妨げられる。いっそ直線的に削り取って抵抗をなくしたほうがよさそうな気がするが、それができない理由があるのだろうか・・・。
堤内地側から見たところ。
薄い色の三角形に見える地割りが松永沼の跡だ。
古い航空写真を見ると昭和50年ごろまでは沼が残っている。
(2026年07月01日訪問)
