今回、旅程を変更して時間を割いてまで加古川に立ち寄ったのは「ニッケ社宅」を見るのが最大の目的であった。ニッケとは日本毛織株式会社の略で、東証一部上場企業である。加古川で誕生して百年以上の歴史をもつ立派な会社だ。(写真はニッケ加古川工場。)
その会社の社宅、それが「ニッケ社宅」なのである。
そのニッケ社宅、現在でも人が住んでいるため詳しい情報は分からないが、私は実はこの社宅は 戦前までさかのぼるのではないか と見ている。もちろん戦前の建物というだけなら日本中にいくらもあるだろう。私が問題にしたいのは、ここが社宅という性質上、町内すべての建物が戦前に建てられたままの町並みを維持しているという点である。
ちゃんと調べたわけではないのだが、そう思う理由は、一つにはニッケ加古川工場は明治時代にできたニッケ最古の工場であること。そして、社宅の造りは和風だが、戦後の復興期に建ったにしては贅沢な造りだし、高度成長期には和風の社宅街が造られたとは考えにくいというのも理由である。
また町内の街角には火災報知器が設置されており、その文字を見ると右から左へかかれているという点も怪しい。
さらに以前来たときは路上のあちこちに年代物の消防設備があり、これは太平洋戦争中に空襲にそなえて設置されたものではなかったかと推測されるからだ。(今回行ったときには残念ながら消防設備は撤去されていた。車が通りにくいからであろう。)
しかも付け加えるならば道路は狭くて 未舗装 で、町内全体にまったく駐車スペースがないことから、自家用車を想定していない時代の都市計画であることは間違いない。
そもそも市街地で舗装されていない道路自体、最近では珍しい。こうして見ていると、本当に過去の日本にタイムスリップしてしまったのではないかと思えてくる。
社宅には何種類かのタイプがある。これは平屋タイプ。
社宅のタイプは区画ごとにはっきりと分かれている。
職位、家族構成などにより入居できる社宅が違うのであろう。
表に狭い庭があり、裏手に坪庭、浴室、便所をもった二階屋のタイプ。
上記タイプの裏からみたところ。
便所、浴室が1軒ごとに左右対象に造られているのがわかる。
このあたりは、表に広い庭を持たせたタイプだ。
南側には塀にかこまれた一軒家タイプの社宅が続く。おそらく幹部クラスの社宅ではなかろうか。
町の中心には広場とクラブハウスがあり、当時としては驚くほど近代的な都市計画だったはずだ。
クラブハウス「ニッケ社宅倶楽部」。つまり、公民館みたいなものだ。
今は機能していない。
内部も立派。いい仕事がしてある。
たしかに今では紡績産業は花形ではなくなってしまったかもしれないが、ニッケという会社が、いかに社員の福利厚生に力を入れ、世界を見すえた文化的な企業だったかというのがこれを見ただけで分かるというものだ。
購買部か?
かつてはここまで電話をかけにきたのだろう。
今、この町内の入口には「散歩等での立ち入りは御遠慮ください」というような張り紙がしてある。生活空間でもあるので気持ちはわからないでもないが、この町並みは誇りに思っていいと思う。胸を張って他所者に自慢してもいい町並みだ。この社宅を見ていると、いまどき流行っている情報通信関連企業なんてアブクかカスミみたいなものに思えてくる。
町内の北にあるバレーボール場。ポールは常設だ。
社宅の一部にはモダンな住宅もある。この建物さえ、ある意味では時代を語ることのできる建築だ。
加古川やその周辺には国宝建築や国重文建築がごろごろしている。そうした文化財は10年後にも20年後にも今とおなじ形で残っているだろう。だが、この社宅は今後ちょっとでも景気がよくなれば再開発されてしまうかもしれない。そう考えると、どうしても立ち寄って写真を撮っておきたかったのだ。
私もこの一帯を重要伝統的建築物群保存地区にしろとか、加古川の観光地にして観光客を誘致しろとか言うつもりはない。この町内の未来は、惜しまれながらもいずれ再開発されるという以外にはありえないだろう。それだけに私にとってここは国宝建築以上に価値のある町並みなのである。
世の中には江戸時代の町並み、明治大正の町並みというのは体験できる場所はあるが、戦前の町並みを体験できるという場所は他にはないのではないか。今回このサイトでも最大級の写真枚数を使って紹介しているのは、本当に希有な存在だと思っているからである。もしこのページをご覧になって少しでも興味を持たれたら、一刻も早くここを訪れてみることをお薦めする。
ニッケ社宅に住んでおられたKさんという方からメールをいただいた 。 (2004.2.15追加)
父が日本毛織加古川工場に勤めていましたので 昭和10年から昭和35年まで社宅に住んでいました。15番目の写真、購買部か?とありますのはクラブの おじさんおばさんと呼んでいた夫婦が住んでいて、電話の 取り次ぎ、クラブの掃除等住民の世話をして下さいました。戦時中は工場長の住む家に、軍(尾上に飛行場がありました)の部隊長が住んでいて、会社も軍に気を使っているのだな、と子供なりに理解して いました。 ガス、水道は会社から引いてあり、当時としては文化的な 生活をしていたように思います。
(2001年04月29日訪問)