続いて、伽藍配置図で川の下側(東岸)にある開山堂方面へと向かう。
道からは開山堂は見えず、山の上へ石段が続いている。すでに旅の疲労がたまっていて、少しの石段を登るのもきつい状態だ。脚が前に出ようとしない。
しかたなく「この鉛みたいな脚はオレの脚じゃない、だから登ってもつらくないもんね」と自己暗示をかけて、暗示がとけるまえに石段を一気に駆け上がる‥‥。
石段の途中には石橋があって、十六羅漢像が並んでいた。
開山堂。
開山堂の左には宝形の地蔵堂がある。
室町初期の建物で、仏通寺の開山が最初に寺を建てたときから残っている建物だそうだ。もとは茅葺きだったということである。
国重文に指定されている。
地蔵堂の内部。須弥壇も国重文。
床は板敷きだった。
地蔵堂の前の岩場に建てられた多宝塔。
昭和4年の建築だが、軒の出具合や屋根の勾配などが美しい。(もしかしてどこかの名塔のコピーか?)
多宝塔付近から本坊を見下ろした様子。
石段の登り口付近には経蔵がある。
内部は輪蔵になっていた。
写真はちょっと失敗。経蔵内部の写真は10cm角程度の格子戸のすきまから小型のデジカメを差し入れてファインダをのぞかずに勘で撮影するので、うまく被写体を捉えることができないことが多いのだ。
経蔵のとなりには
四阿というより、限りなく
塔頭のひとつ肯心院。
現在3ヶ寺の塔頭が残っている。全盛期には88ヶ寺の塔頭寺院があったという。
塔頭のひとつ。名前は失念。
塔頭のひとつ永徳院。
この塔頭がやっている茶店で“ヨモギうどん"という名物があって、かなり美味いと聞いたので、今夜の夕飯にできないかと少し期待して来たが営業していなかった。この時間観光客はいないし、旧山陽道といっても険しい山道で車の通行はほとんどないのでしかたがない。今夜の宿泊地でなにか適当に食べることにしよう。
仏通寺の入口付近にあった不動堂。
不動明王ではちょっと宗派が違うので、仏通寺の管理物件ではないかもしれない。
(2001年05月03日訪問)