福聚院の東隣にあった寺。この寺の裏山は大年寺山といって茂ケ崎城という城跡にもなっている。巨大なテレビの電波塔があるのが目印だ。
その山の上り口には高麗門のようなものがあり、大年寺はこの手前右側にあった。山上には伊達家の墓所があり、そこへ参るための門ではないかと思われる。
大年寺は伊達家四代藩主が創建した黄檗宗の寺院で、四代以後明治維新まで伊達家の菩提寺であった。かつては七堂伽藍を備え、黄檗宗の三叢林と呼ばれるほどだったという。現在は写真のごとく、当時の面影はない。
「かつては七堂伽藍…」とか「かつて東の高野山…」などと自称している寺があるが、どうも信ぴょう性が感じられない場合が多い。特に関東以北の場合に。西国でそういうことを自称している寺を見るとそれなりに面影が残っているものだ。
境内の案内板に、由緒書きが延々と書かれていたが、どうして寺の由緒ってああもダラダラとして読みにくいんだろうか。七堂伽藍のくだりなど、一つの文が260文字くらいある。あまりに読みにくいのでデジカメで撮影しておいて、今この文章を執筆しながら読もうと思ったが、結局読む気になれなかった‥‥。
境内は墓参用の駐車場になっている。入り口の脇には鐘堂がある。
庫裏(右)と本堂(奥)。
由緒書きと一緒に書かれていた往時の伽藍配置図があまりにもわかりにくかったので、そのときはどこの地図なのかさっぱりわからなかったのだが、帰ってきてからよくよく眺めてみたらどうやら地図は山頂の地図だったらしい。
山頂は伊達家墓所しかないと思っていたので行かなかったのだが、山頂にもなんらかの伽藍があったのかも知れない。(もう少し分かりやすい地図を書いて欲しい。)
本堂の軒先には木魚がかかっていた。
このあたりはいかにも黄檗宗らしいといえばらしいといえよう
(2001年09月23日訪問)