石門の左右には十三仏堂、右手に見えるブロック造の堂は地蔵堂。
国宝の仏堂というと、拝観料を取られたり、ひどいときには柵越しに遠巻きに眺めるだけだったりするが、金蓮寺では近くで心ゆくまで鑑賞することができるのがうれしい。
弥陀堂は鎌倉時代後期の建築といわれ、実際に各部の意匠を見ても古い様式が随所に見られる。
例えば、この柱の面取り。
面取りとは、四角形の柱の四隅を45°に切り落とすことをいう。この45°に切り落とされた面が広いのは古い建築の証しなのだ。
また、肘木(柱上のT字の横の部分)が舟肘木という古い形態であることも古い建築の特徴である。
この堂では軒桁(肘木の上の横長の材)にも大きな面取りがされているので、肘木と軒桁の接触面が溝になっているのもおもしろい。
もっとも、こんなふうに古い建築の特徴を観察することに意味があるのか、私はときどき疑問に感じることがある。
なぜなら、平安時代や鎌倉時代の建物はほとんどが国宝だから、自分が時代鑑定をする必要はない。それに昭和に建てられた粗末な仏堂でも舟肘木が使われていたりして、本当に意匠だけで年代がわかるわけではない。
それよりももっと気になることがある。この堂は昭和30年代に修復されていて、外から見える部材は全てその時の後補であるが、では修復前にも面取りの大きな柱が使われていたのだろうか、ということである。
そもそも建築史という学問が誕生して、建築年代ごとに様式が異なるという研究が進んだのはせいぜい明治以降なのだ。江戸時代にこの堂を補修した宮大工は鎌倉時代や室町時代の意匠を理解して、ちゃんと「鎌倉風」に補修していたのであろうか。
もしかしたら江戸時代の宮大工は、江戸時代や桃山時代の意匠で修理してしまっていたかもしれない。
しかし現代の国宝の修復では江戸風の改修などすべて取り払って、鎌倉風の部材に変えてしまう。つまり「鎌倉時代ならこうであるはずだ」という知識を元に、教科書通りに創建当初の形に造り変えてしまうのだ。
その建物を私たちが見学して「やはり鎌倉の建築は面取りが大きいね」などと感心することにはたして意味があるのだろうか。
‥‥とまあ、疑問を感じるくらい新しい部材で造られた国宝だった。
弥陀堂の右には本堂(写真)、玄関、庫裏がある。
閻魔堂。(?)
その右側には、幟を建てるための竿をしまっておく長い堂。
そのさらに右側には三十三観音があった。
鐘堂は柱部分はRC造、小屋組みは木造のハイブリッド建築。
境内の中央にはお不動様の名水という井戸。近くには水盤舎があった。
(2001年10月08日訪問)