続いて富士塚を目指す。まず向かったのは長沼町の養気山。
養気山公園という公園の中にある。この公園は八幡宮外苑という別名を持っている。八幡宮とは 1 km ほど北にある長沼八幡宮のことであろうか。
伊勢崎の南部には比較的濃密に富士塚が分布している。そのなかでもおそらく養気山は最大の規模のものであろう。
全国的に(と言っても富士塚自体、関東近辺にしか分布しないが)見ても、大きさ、材質から言って屈指の富士塚と言っていいだろう。
高さは約8mで、全体が溶岩に覆われている。
西側から行くと、途中に川をかたどった溝のようなものがあり、石橋が架かっている。
富士塚には富士五湖を象徴する池が併設されることがあるそうだが、この川は何を意味しているのだろうか。
登山路はあまりはっきりせず、勝手に岩にすがりついて登る感じ。当サイトのテーマ「巡礼空間」としては、ルートが限定されないというのはマイナスの評価ポイントとなる。
途中には入定窟のようなものがあるが、ふさがれていて何も祀られていなかった。
そもそも、本稿では養気山を勝手に富士塚と言っているが、これが富士塚であるとはどこにも書かれていないのである。
それどころか、石碑には「明治初年に地域の意気の高揚のために作られた」というようなことが書かれている。ここから先は勝手な妄想なのだが、ここには元々浅間神社か何かがあったが、明治時代の神社合祀で破却され、その時に、せめて富士塚だけでも残そうと、「この築山は浅間信仰とは無関係です! 地域のシンボルです!」と宣言し破却を免れた経緯があったのではないだろうか。その後大正7年に合祀令が廃止されたものの、いまさら富士塚として信仰復活させるわけにもいかなかかったのではなかろうか。
国家権力を欺いたという後ろ暗さは、国家神道により戦争へと突き進む当時には相当の重みがあったはずである。それは平成の今でもこの地域に尾を引いていて、富士塚の祭祀(山開きなど)も行えず、文化財指定もできず、伊勢崎市の片隅で人々の記憶から消えてゆこうとしているのではないか、そんな空想をしてしまった。
山の頂上から見下ろしたところ。けっこう迫力がある。
塚の裏には月待ちの石塔などが点々と設置されていて、山の中腹までは登山道のようなものがつけられていた。
なおこのあと近くを散策したが、なぜか庭に溶岩の築山を構えた家が多かった。長沼町のすぐ南には利根川が流れている。今は堤防が築かれているが当時は河岸があっただろうから、これらの溶岩は利根川の舟運でもたらされた富士山由来のものかもしれない。
養気山の南側は公園になっている。
せっかくなので紹介していこう。
遊具のなかで特に気になったのがブランコ。柱が鉄筋コンクリート製で、かなり古そうである。50年くらいたっているのではないか。
ロープが張られ、使用禁止になっていた。
群馬県で最古のブランコはどこにあるか、というような調査が行われるとしたら、真っ先に推挙したい物件だ。
太鼓雲梯つき滑り台。
メーカーの規格品ではなく、鉄工所の一点ものと思われる。
滑降部下部は土にめり込んでもはや遺跡といっていい。
この滑り台も使用禁止である。
固縛された遊動円木。
まあ仕方がないかな。
使用禁止のカモメ雲梯。
園内にはほかに第2のブランコ、鉄棒がある。第2のブランコも使用禁止になっていたので、遠からずこの公園の遊具はすべて無くなるだろう。
(2004年08月31日訪問)