本郷稚蚕飼育所がある一帯は、大胡町といって、平成の大合併前までは前橋市とは別の町であった。地図をクリックすると「殿町」「根小屋」など地名が確認できるが、いずれも城下町の典型的な地名である。その大胡の町の外縁には、かつての城の縄張りの一部を構成していたであろう寺々がある。中学や高校時代には、城下町の風情を楽しむために、前橋から自転車でこの寺町を訪ねたりもした。
また時には、化石を掘るためにさらに遠くの新里まで遠乗りすることもあった。そのときには、大胡町は中間点の目印となる町なのだった。当時、新里までの道々に何ヶ所も稚蚕共同飼育所を見た記憶があって、稚蚕共同飼育所めぐりはこの地域から始めることにしようと、自分なりに考えていた。
ところが最近、新里に用事があって同じ道を車で走ることがあり、注意していたのだが飼育所はひとつも見つからず、今回の稚蚕共同飼育所めぐりは古い地図を調べての仕切り直しとなったのだった。
さて、大胡町の北西の守りを固める金蔵院も、若い頃に訪ねたことのある寺だ。
だが、その当時のことは青春時代のおぼろげな記憶であって、寺の様子もはっきりとは覚えていなかったし、門前の黄色い建物が稚蚕共同飼育所だということに気付いていたかどうかに至っては、まったく記憶にない。
だが現在の鑑定眼を持ってこの寺を訪れたら、寺そのものよりも、この飼育所に目が奪われてしまうだろう。
建物は直線型で、西側(写真)が宿直室と貯桑場になっている。
東側は飼育室で、妻には配蚕口があるのは、直線型飼育所の定石だ。
換気塔は2個、高窓は3個。
北側の一部がガラスになっていて、内部を覗くことができた。この扉は桑の搬入口であろう。左手前には地下の貯桑場に降りる階段が見える。地下への入口は保冷のため床板でふさいである場合が多いが、ここはどうやら開放だったようだ。人が間違えて落ちないように手すりがある。地下室への降り口に手すりがある構造は初めて見た。
右側の少し高くなっているステージのような部分は挫桑場といって、稚蚕に与える桑を細断する作業をしたスペース。奥の障子がある部分が宿直室である。挫桑場と宿直室の階下が貯桑場になっている。この構造もほぼ典型的と言っていいだろう。
内部は養蚕器具などは取り払われているので、一時的に倉庫にでも使われていたのかもしれない。だが、稚蚕共同飼育所を運用するための建築上の機能はほぼ維持されているようだった。
建物の北側には衛生施設が並んでいる。
トイレは外部にある。
桑の搬入口付近には更衣室。
白衣をかけるための釘がわかる。
更衣室の北側には水槽が残っていた。
宿直室にはタンスのようなものが見えた。外側からみるとその部分が飛び出しているが、これが何なのかはわからない。その下部には、地下室の明かり取りの穴が見える。
ここまで訪問してきた赤城南面の稚蚕共同飼育所を歴史的に整理すると、初期の木造建築の土室育方式、中期のブロック造の電床育方式、後期の大部屋飼育での機械化蚕座方式という3つの時代が浮かびあがってくる。その中で本郷の飼育所は、中期の特徴をよく備えており、保存状態もよい。中期飼育所のモデルとして、今後も保存してほしい物件だ。
(2007年02月12日訪問)