この首塚は、本来は円墳なのだが、その一部に150体分の頭蓋骨が埋められているのが見つかったというものだ。
埋められていた骨は頭蓋骨のみで、下顎骨や他の部位がないことから、改葬されたものだと考えられている。骨の特徴は中世の日本人に近いらしく、戦国時代にたくさんの死者が出ていったんどこかに埋葬したものが、後の時代に発見されて改葬されたのではないかといわれている。
頭蓋骨はいまでもこのお堂の中にに安置されている。
お堂の中をのぞいて見ると、カマドのようなものが見えるが、この扉の中にたくさんの頭蓋骨が入っている。
ここは一度、高校時代に訪れたことがあるが、そのころはこの扉は開いていて、中はガラス張りで骨を見ることができたような気がする。もう、ん十年も前のことなので、思い違いかも知れないが。
日が暮れかかった時間帯ということもあって、背の高い供養塔がいい感じに不気味な写真になってしまった。
これで、碓氷方面の飼育所巡りの2日目はおしまいである。2日目では、これまではっきりとわからなかった空調大部屋方式の飼育所の内部を見ることが出来たのが大きな収穫だ。
また、九十九川の上流地域には、土室電床育の建物が多く残っているというのに驚かされた。土室電床育は土室育を改装したものだから、建物が建てられた年代は古いと考えてよい。赤城南面では土室電床育ほとんど見ることができなかったのが嘘のようだ。
このことが何を意味しているのかはまだわからないが、次のような仮説をたててみた。
- 碓氷方面では稚蚕共同飼育への取り組みが早く、他の地域ではそれより数年遅く普及したため、様式が異っている。
- ブロック電床育は赤城南面の宮城村で発明され、その地域を中心に伝播したために距離が離れるにしたがって密度が減っていく。
- 碓氷方面の人々は物持ちがよく、古い建物を壊さずに再利用する傾向があった。
- 軽石ブロックが手に入りやすい地域とそうでない地域があった。
真相はいつかわかるときが来るのだろうか。
ここまでで2008年の旅の記録は終わりなのだが、その後、行楽の途中などで、散発的に碓氷安中方面で見かけたものを、追補としていくつか書き加えることにする。
(2008年05月03日訪問)