死の鉄道博物館跡の近くの民家で聞いてジャパンパヤーの場所がわかった。それは、博物館跡から国道8号線を1 km くらい南下し、国道が線路を横切る場所のすぐ近くにあった。
ちなみにこの路線は旧
たぶん、この寺にはちゃんとした名前があるのだと思うが、日本軍が建てた慰霊碑があることから「ジャパンパヤー」つまり「
知らなければ通り過ぎてしまうような小さな寺だ。
実際、きょうの社員旅行だって、ここに来るまでの途中で巨大なパゴダや大仏、奇岩に作られた寺などをいくつも素通りしてきたのである。
メインとなるパゴダは、階段付き基壇の上にある。
ウィンセントーヤ寝釈迦の総門の横にあったのと同じタイプだ。以後、こういうパゴダを見たら「八角登壇型パゴダ」とでも言うことにしようかと思う。
誰も登ろうとしないが、「登っても大丈夫ダヨ」と言われたので私ひとり登ってみることにした。
せいぜい三階くらいの高さだが、まわりになにも邪魔になるものがないのでけっこう遠くまで見通せて気持ちがいい。
山門方向を見てみる。
北側をみるとゴムの林がづづいている。モン州の郊外の普通の風景だ。
草の葉葺きの屋根にヤシの葉で編んだ壁の家。貧しいといえば貧しい暮らしである。だが、日本人の大多数は隣家と壁が接するようなゴミゴミした住宅地に住み、1ヶ月に1度も土の上を歩かないような生活をしている。それが果たして幸せなのか、わからなくなるときがある。
八角登壇パゴダの横には、四本の柱の上に載ったパゴダがあった。階下にはコブラ型光背の仏陀像。
敷地の奥にあった金色のパゴダ。どうも、ここが日本人が建てたパゴダとされているようだ。
「これはニホンゴか?」職場の人たちが卒塔婆を見つけた。
まあ、半分は日本語である。
「モールメン方面戦没英霊」と書かれている。「モールメン」は「モーラミャイン」の古い言い方。
「日本寺」の語源ともなった、日本軍が残した慰霊碑。
「泰緬連接鐵道緬側建設殉難者之碑」とある。
背面は「泰緬連接鐵道完成之秋ニ方リ碑ヲ「タンビザヤ」ニ建テ緬側人柱之霊ヲ慰ム 昭和十九年二月吉日 緬側建設部隊長 陸軍大佐従五位 勲三等 佐々木萬之助」とある。
泰緬鉄道はタイ側とビルマ側の両端から建設をしていった。佐々木はビルマ側の責任者だったのだろうか。
ちなみにタンビュザヤ付近には埋蔵金の噂がある。日本軍が撤退すするとき、パゴダなどを線で結んだ秘密のポイントに金塊を隠したというのだ。その金塊を探して山を掘る人が後を絶たないため、タンビュザヤ付近では埋蔵金探しは禁止されているという。
ミャンマーの寺というと、明るく楽しいイメージがある。
だがミャンマーには数万人の日本兵の遺骨がいまも回収されることなくどこかに埋もれていることは忘れてはならない。こうして私が見ているパゴダやヤシの林の風景も、この土地で亡くなった兵士たちには、異郷の地の心細い景色に見えただろうと思う。
(2014年02月08日訪問)