雲越家住宅

国指定有形民俗文化財に指定されている。

(群馬県みなかみ町藤原)

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藤原地区でも一番奥まった山口という字に雲越家住宅という資料館がある。

集古館と同じく妻兜造りの茅葺き屋根で、藤原地区の民家の特徴をよく表している。建てられたのは明治20年ごろと推定されている。

この家で特に着目したいのが大棟(おおむね)。集古館はトタンを被せて棟を保護していたが、こちらは棟に草が生えている。

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この大棟の手法を「芝棟(しばむね)」という。藤原の言葉では「クレグシ」、「クレ」は芝生、「グシ」は棟の意味である。

芝生を土ごと剥ぎ取って屋根の棟に載せたものなのだ。大棟は傷みやすい部分で、そこに根を張らせることで棟が風で傷んだり水の浸入を防ぐという工夫なのだ。ユリが生えるのがよいともされている。

藤原では萱屋根は40年に1回葺き替えるが、芝棟はそのあいだに2~3回修理する必要があるという。

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屋根の中央には煙出し。囲炉裏の煙を屋根裏に上げて、大棟のところから排気している。

この家は国指定有形民俗文化財に指定されている。古民家というと国指定重要文化財に指定されるケースが多いわけだが、こちらは有形民俗文化財というかなり特殊なケース。

有形民俗文化財は、通常は祭りのときに使う祭具や、生活用具などが指定されるものだ。

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この家に最後に住んでいた雲越仙太郎は、明治30年生まれ、この家で亡くなったときは昭和55年、84歳であった。彼は5人兄弟の2番目で長男だった。11歳のとき父を雪崩で亡くし、以来、父親代わりに家を支え兄弟を育て上げた。母が病気になってからは20年間一人で看病して嫁も取らず生涯を終えた。

彼は苦難の時代が長かったためか、節約の精神が骨身に染みていて、現代の利器を買わず、最後まで自給自足のような生活を続け、藤原の奇人とまで言われた。

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その彼が亡くなったあと残された生活用品は4,000点あり、そのうち約2,500点が民俗文化財に指定された。その一切が彼が住んだ家にそのまま留め置かれているである。よくある民俗資料館のように、誰かが寄付した古民具が並んでいるのではない。一人の人間の山里の人生のすべてがあるのだ。

もちろん物持ちが良かったということは最後にはゴミ屋敷の様相だったかもしれない。ゴミや昭和的な衣料品などはたぶん片づけて純度の高い民具を残したのだと思うが、それでも一般的な展示古民家とくらべるとおそろしくモノが多い。

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入口は左勝手で、土間を「ドヂ」と呼んでいる。玄関は「ドヂグチ」である。

その左はカッテというナガシ、仙太郎が実際に使った鍋が天井から下がっている。

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ドヂグチの右には竃。味噌を作ったり、馬の飼い葉を暖めたりするのに使ったという。

昭和55年といえば多くの家にカラーテレビがあった時代で、洗濯機、冷蔵庫、電話も普通だった。その時代に仙太郎は電気も(おそらく)プロパンガスも使わない生活をしていた。

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土間から上がった板敷きの部屋はデエドコと呼ばれる。

日常の煮炊きは囲炉裏でしたのだろう。

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デエドコに部屋があり樽が置かれていた。味噌部屋。なんと樽の中にはまだ仙太郎が作った味噌が残ったまま。仙太郎が干して薫製にしたイワナなどもそのまま。

手前の柱を見るとチョウナ仕上げ。

「昔はみんなそうでしたよ」と案内のおばさんに言われたが、江戸時代まででしょ、普通は。

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デエドコから見て上手にはチャノマ呼ばれる部屋がある。仏壇と神棚がこの部屋にあり、この部屋には天井がなく屋根裏まで吹き抜けになっている。古い家では神棚の上には部屋を造らないのが普通だ。

チャノマには仙太郎の一代記が絵解きとして飾られている。

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チャノマの奥にあるヘヤと呼ばれる部屋。一般的には寝間か。ここには仙太郎が実際に寝ていた布団まで残されている。長押にハンドバッグみたいなものが下がっているがそれも仙太郎かあるいは母が使ったものなのかもしれない。すごく生々しい。

雪深い山里ではこうした狭い寝間に籠もって寒さをしのいだのだ。

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ここで注目したいのは敷居が15cmくらい高くなっていること。これを「納戸構(なんどがま)え」という。この高さまで寝間に藁を敷き詰めるための段差だ。藁の上にムシロを敷いた。その上に敷いてあるのは「シビぶとん」といって綿の代わりに藁を詰めたマットレスのようなもの。11月~5月の寒い時期に使う。

納戸構えは非常に古い家に見られる造りだが、この家は明治20年なので年代的には新しい。ただ、藤原という世間から隔離された山奥ではこうした造りが明治まで残ったというのは非常に興味深いところ。

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一番上手の部屋オクノデエにあった雛飾り。

右下の棚、裃雛(かみしもびな)がある。北関東では子どもが生まれたときの贈り物とされる簡素な雛人形だ。

上に干してあるのは、たぶん左からモチアワ、ヒエ、ウルチアワ、キビ。これは飾りのために青刈りしてある。実が入ってから刈ると実が落ちてしまうため。

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新田の猫絵。新田源道純筆とある。

本物かな?

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2階へも登れる。

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2階には天井がなく屋根裏が見えている。

小屋裏を見ると大棟を支える束((つか)木材を垂直に使った部材)がない。このような屋根の架構を「扠首(さす)構造」という。扠首という斜めの木材が(はり)に差し込んであり、三角形を造っているため力学的に安定する。奥飛騨の合掌造りは扠首構造の大規模なものだ。

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2階は養蚕をした空間で、農具や養蚕に関係する展示物が多い。

回転蔟、使ってたんだ・・・。

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改良藁蔟(わらまぶし)編み機。

回転蔟が使われる以前の主流だった改良藁蔟をこれで作った。

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棒が4本突き出たものは、おそらく、萱を折り曲げた蔟の編み機だと思う。改良藁蔟編み機が登場する以前の道具。

左側の機械的なものは繭の毛羽取り機。昭和初期の道具。

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炭俵の編み機。

編みかけの藁はたぶん道具の使いかたがわからなくならないように地元の人が編んだサンプルだろう。

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ムシロの編み機。

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様々な天然繊維の素材。

手前から、藁縄、(おそらく)(かや)苧麻(ちょま)大麻(たいま)。戦前は大麻を普通に育てることができた。

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奥に見える二股のものは千歯扱(せんばこ)き。コメなどの穂から実を外す道具。

木製の石臼みたいな道具「スルス」。籾摺り機。

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玉繭と袋真綿(ふくろまわた)が残されていた。管理タグが付いているからこれも仙太郎や彼の姉弟が作ったものなのか。

袋真綿はおもにつむぎ糸の原料となるもので、治具を使わずに手作業だけで整形する。現在は福島県が主な産地。群馬県からも出荷されていたのか?

仙太郎がいくら昔からの生活を続けていたとはいえ、織物などを作ったとは考えにくいので真綿は現金化が目的だったかもしれない。

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上州座繰器。いずれも前橋型とされるもの。

糸枠には生糸がかかったままだが、枠にかけたまま放置するということはあまりないので、これは後にサンプルとして作られたものかもしれない。

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糸車と腰機(こしばた)

糸車は藤原の言葉で「めんとり車」といったようだ。説明ではヨコ糸の管巻きに使ったとある。

座繰器や袋真綿が残されていたので、手引きの糸の撚糸に使った可能性もある。

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チャノマの上は吹き抜けなので、キャットウオークみたいになっている。

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繭缶かな?

自家用の乾繭を保管した容器。

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ネズミ取り箱。あまり見たことがない道具だ。

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表に出てみた。

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庭には腰折れ屋根の納屋のようなものがある。中にはプレハブ小屋が入っている。仙太郎時代の建物ではないと思われる。

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この小屋はサンプルとして生産されている雑穀類の干し場として使われていた。

管理人のおばさんに話を聞く私。主に、積雪地帯での養蚕について。

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庭には水唐臼がある。

精米の道具。

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管理タグが付いていないので、仙太郎時代のものではないかもしれないが、実際に藤原にはこうした唐臼があったのだろう。

このようなラフな小屋に設置していたのかはわからない。

(2010年10月23日訪問)