きょうは仕事を休み、人形アーチスト野口哲哉の作品展を館林の美術館まで見に行った。用事はそれだけだったし、美術展ってけっこう疲れるから特にどこかに立ち寄るでもなくダラダラと帰路についた。
ダラダラ帰るといっても、国道354号線を走っていたのでは何の気づきもないから、昭和橋で利根川を渡り、利根川の南岸の細い道を縫いながら西へ向かうことにした。
藍農家の特徴を残した民家でもないかなと、街道を外れた集落の中を走っていると、道端に不思議なものがあった。
それは、石材屋さんの資材置き場のような、あるいは、整頓の悪い工務店の廃材置き場のような、石が乱雑に積まれた塚だった。
でも、よく見ると石材屋さんでも工務店でもなさそう。
信楽焼のたぬきや、恵林寺の僧の辞世の句など、とりとめもない石碑が並んだミニ霊場のようだ。
そして、作者は深谷市の市長選に立候補した経歴を持つ名士らしい。
般若心経の一部が書かれた碑。
この奥が作者の家なのだろうか。
塚には登れそうだけど、私有地かもしれないのでやめておいた。
案内板があった。
恩報
不肖熊治は大正十二年二月六日生若くして両親に先だたれ長男正治には業務上の過失とはいひ不慮の急死に遇い更に初孫清一を交通事故に失う等幾多の大難に遭遇せしも常に強く耐え忍んで夫婦揃って今日まで生きながらいて来た其の間二人で北は北海道から南は九州四国の津々浦々の霊所をめぐり報恩の生活を続けている特に北陸の出羽三山熊野三社龍泉洞安家洞⿓河洞秋芳洞など思出は盡きない
大東亜戰󠄂争に空母信濃の生き残りの一人として熊野灘沖の慰霊祭に夫婦揃って参列した時の感は忘れることはできない
いま大震災六十囬の記念日に当り數多の遭難者大東亜戰󠄂争に散華した諸英霊に心から慰霊の誠を捧げると共に今後更に駄馬に鞭あてヽ奮闘する決意を聊か石に刻して朝夕のいましめとす
昭和五十五年九月一日(震災記念日)
空母信濃艦生存者伊丹熊治妻オワ
上増田菊池縫書
思わず合掌せずにはいられない内容だった。
どうやらこの霊場を造ったのは、伊丹熊治という人らしい。わかったことは、鍾乳洞が好き!ってこと。
碑を建てたとき55歳、いま存命なら98歳。存命だとしてももう高齢なので、霊場の保守はままならないのだろう。
奥の方では五重の塔などが崩壊しかけていた。
(2021年08月03日訪問)