第1三島橋から道なりに進むと抜水橋「
その轟橋から見下ろすと、第2三島橋が見えた。
中洲はかなりの大きさで畑や水田として利用されている。
2つの沈下橋は中洲で農業をしている人たちの農道でもあるのだ。
案内板によれば第1三島橋が架かったのが昭和41年、第2三島橋が昭和42年のことで、それ以前は渡し舟で中洲と行き来していたという。
農作業も渡し舟で行なっていたのだろう。面倒だったと思うが、かつては山で切り出した木材を川を使って流送していたからこうした安価な低い橋を架けることはできなかった。つまり昭和40年ごろには四万十流域の木材輸送がほぼトラックに切り替わったということを意味しているのだ。
(2012年03月20日訪問)