旅の5日目。
椎葉村で宿泊したので、村内を観光していこう。
宮崎県の椎葉村、徳島県の祖谷山、岐阜県の白川郷は日本三大秘境といわれる。これですべて行ったことになるが、どこも観光地として開発されていてアクセスもよく、秘境という感じはしない。くさすわけではないけれど、この三大秘境の人々のいまの生活は、奥山のきびしさやつつましさとは違っていて、むしろ四国山地の人が行かない山村のほうがはるかに秘境らしい暮らしをしている。
なので椎葉村も「落人伝説があり今も焼き畑が残る秘境」のイメージで行くと拍子抜けしてしまう。
集落の中心部に国重文の民家那須家住宅があるので、まずそこを訪れてみた。
急傾斜地の民家は等高線に沿った狭い土地に建てられるため、いわゆる田の字型の間取りではなく部屋が横並びになる傾向がある。
那須家の間取りを見てみると、見事に4室が横並びになっている。呼び方は案内板によれば「並列型民家」となっているが、「民家が並列」しているみたいな名前なので、あまり分かりやすい言い方ではないと思う。迷いの生じないように言うなら「右勝手・4室・竿屋造り」とでもいえばいいか。
同じ傾斜地の徳島祖谷の民家も基本的に横並びなのだが、防寒とプライバシーが求められる寝所だけは表から見て奥側の2部屋目に配置される変則的間取りになっている。それに対して椎葉の間取りは、寝所である「つぼね」が縁側に面しているのがその特徴といっていいと思う。
だが、見落としてはいけないのが敷居の存在だ。図を見ると「ござ」、「でい」、「つぼね」の3室は部屋が前後に仕切られていて実質的には合計6室になっている。奥側の空間を「おはら」、縁側の空間を「したはら」と呼ぶそうで、したはらは封建時代に身分の低い者が庭にゴザを敷いて家人に面会した名残だと説明にあった。
だが、そういう歴史的経緯を無視して純粋に間取りだけを見ると、実はこの那須家住宅は一般的な「広間型」プランと同じにも見えなくもない。
したはらだけを見ると、ござ、でい、つぼねそれぞれに6畳、8畳、4畳の広さがあり縁と合わせれば、現代住宅の1部屋以上の空間だが、縁を除外すると幅は1間しかないから、実際に入ってみると広い片廊下のような空間に感じられ、部屋として利用できたのかはなんとも言えない。やはり興味深い間取りなのだ。
実際の建物を見てみよう。
屋根は本来茅葺きだが、防火と耐久性のために銅板がかぶせられている。
建てられた年代は不明で、説明には300年前の建物(江戸初期)であるため国重文指定されたという説明があったが、現代ではその半分150年前(江戸後期)くらいだろうと考えられているようだ。古民家の重文指定時の学説ってインフレを起こしやすいのだ。
棟には丸太がぶら下げられた千木みたいな棟飾りがある。
土間は右側。
土間の幅はわずか2間しかなく、上がり框があるのでとても狭く、農作業をしたり牛馬を飼ったりできそうにない。
この家が農家ではなく、庄屋などの特権的な家だったことを意味しているのだろう。
カマドは幅2間をふさぐように奥側に設置されていて、カマドの奥は板の間になっている。
この板の間を「かまのせ」と呼ぶようだ。
長押にはカマドの神様。
天井板が抜かれていてカマドの煙は天井裏へ抜けるようになっている。
土間側から見て最初の部屋「うちね」。
17.5畳あり、家族が過ごしたり食事をしたりする現代でいう居間である。
日本の農家の一般的な広間型間取りの広間に相当する部屋だ。
2部屋目は「つぼね」。夫婦の寝所で、お産もこの部屋で行うとされている。
ふすまがあり、奥側の「おはら」と、表側の「したはら」が区切られていて、プライバシーが確保されている。この写真はしたはら側から見たところ。
つぼねの奥側。ここだけで10畳ある。
3部屋目は「でい」。
畳がある部分だけで17.5畳、手前の絨毯部分が7畳あり、間にはふすまなどはなくつながっているから、全体で24.5畳の大空間だ。
客間や冠婚葬祭に用いられたという説明だが、押し入れもあるので現実的には家族の寝起きする生活空間だったろうと思う。
4部屋目の「ござ」。
仏壇や神棚のある神聖な部屋。女性や子どもは入れなかったという説明があった。
一般的な農家で「座敷」などと呼ばれる部屋と同じで、この家で最も上等な部屋である。
展示古民家の常であるが、日常生活用品がすべて撤去されているので、暮らしぶりを理解するのはなかなか難しい。
(2012年03月22日訪問)