
秩父鉄道の車輌基地の西側の踏切。その先に荒川の堤防があるが、道路が堤防を貫通している。

通常、堤外地への出入りは堤防を乗り越えるような斜路を造るのが一般的だが、通行の便を図ってこのように堤防を切ることがある。

堤防を切った場所は水門のような構造になっていて、高水が予想される場合は封鎖される。
現在、荒川本流の堤防で陸閘が残っているのはここだけだそうだ。

この陸閘には2つの溝があってここに角材を積み上げる構造。このように取り外し可能な資材で止水する方法を角落しという。
現在も年に1回、訓練で封鎖することがあるという。
当サイトではこれまでにも陸閘を紹介しているが、もう少し近代的な構造のものが多い。これは古いタイプの陸閘と言えるだろう。

この陸閘が造られたのは昭和29年(1954)で、そのころは荒川で建設用の砂利採取が盛んに行われた。川原で砂利を積み込んだダンプが堤防を通過しやすいように陸閘にしたのだろう。

堤外地の道路。かつてはこの先に採石場がありダンプが砂ぼこりをあげて走ったのだ。
だが川砂の取り過ぎで荒川の川床が低下し、上流部では横断構造物が露出するなどの問題が生じ、採取は全面的に禁止された。

現在、秩父鉄道の車輌基地の南側の待機線が並んでいる場所には砂利を搬出するために広瀬川原駅が計画され、現在も登録上は駅が存在するという。

しかし国土地理院のサイトで過去の航空写真を調べると広瀬川原駅とされる場所にホッパー等の設備が設置された様子は確認できないので、広瀬川原駅から砂利を搬出した実績はないのではないかと思う。
写真は昭和50年の車輌基地。
車輌基地の北側に砕石工場はあるが、すでに砕石の出荷はトラック輸送に切り替わっていたのだろう。

鉄道での砂利の運搬はむしろ隣りの大麻駅から行われたと思われる。
昭和35年の写真を見ると、大麻駅から引き込み線のようなものが河原の砕石工場に続いていて、そこにも陸閘のようなものがあるのが見える。
(2025年06月19日訪問)