飯盛山さざえ堂

木造の螺旋構造はさざえ堂の中でも異端児。

(福島県会津若松市一箕町八幡弁天下)

会津のさざえ堂を取り上げたサイトはたくさんあるが、なかなかその全体像を伝えきっているページは見当たらない。「さざえ堂」という建築自体があまりにも特殊なものであるがゆえ、その説明に多くを費やしてしまい、細かな部分にまで説明が行き届いていないことが多い。ここでは他であまり語られていない謎の通路や、賽銭を自動的に集めたという(とい)の存在に触れ、さざえ堂のディテールにまで迫ってみたいと思う。

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さて、まずさざえ堂の建っている場所だが、「飯盛山」という山の中腹にある。

飯盛山は会津白虎隊という少年兵が幕末の会津落城の際に自決したという場所として会津随一の観光地となっている。入り口には土産物屋が建ち並び、山頂まで登る有料エスカレーター(写真の階段右手)などもあり、山内の至る所では土産物屋の客引きの声や、由緒を説明するスピーカーの音などが流れ、江ノ島と似たような“どぎつい観光地"だ。

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ここでのメインはあくまでも「白虎隊」であり、さざえ堂はおまけのような位置づけとなっていて、実際にここを訪れた友人などに話を聞いてもさざえ堂についてはあまり印象が残らないようだ。

山内には他にも白虎隊が逃走時に使った(?)と言われる「戸ノ口の洞門」と呼ばれる洞窟や、ムッソリーニだったかヒトラーだったかが白虎隊を賛美して建立したという慰霊碑などがあり、混乱を増すのに一役買っている。

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売店の前にあったおみくじの自販機。

人形がおみくじを運んでくるというもの。

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肝心のさざえ堂は飯盛山参拝順路の後半にある。外観は写真のごとくであるが、とても狭い敷地に建っているため、堂全体が視野に入りにくく、その全容の異様さはあまり目立たない。実際、入堂せずに外から参詣しただけでは普通の仏堂と同じような印象を残す。

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内部は入場料を払えば自由に見学できる。。

階高は3階相当で、時計回りに上り、反時計回りに下る二重螺旋の構造をしている。

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そもそも螺旋という構造自体、日本の木造建築にはないデザインで、外観に現われている傾斜した木材がその特殊さを物語っている。

現在は国重文に指定されているが、指定されたのはごく最近の平成7年のことだ。

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内部に入ってみよう。

さざえ堂の平面は六角であり、心礎を取り巻くように六角形に厨子が並んでいる。

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床はすべり止めがついているものの階段ではなく、螺旋状の傾斜になっている。つまり螺旋階段がスロープになったようなものを考えてもらえばよい。

スロープ構造のさざえ堂は、知られているかぎり会津と弘前の2ヶ所にしかない。

木造建築でこのようなねじれた床面を構造的に作り上げたという事自体驚きであるし、それを二重螺旋にしたというのは、実際に世界にも例を見ない構造なのだ。

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スロープはけっこう急に感じる。

すべり止めがなかったら滑り落ちそう。

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螺旋の中心軸である厨子にはご詠歌のようなものが収められている。本来はここに西国三十三番の観音像が収められていたというが、廃仏毀釈によって撤去されたまま今は仏像はない。

一般にはさざえ堂は西国、坂東、秩父の合計百観音を収めたものであるという点からして、33ヶ所しか納められていない会津のさざえ堂は他のさざえ堂とは機能的な違いがある。

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また、全国の他のさざえ堂では観音像100体に参詣するので、かなり濃密な宗教体験になるのだが、このさざえ堂は仏像がないために参詣した印象は、単なる奇建築を見たというだけの印象になりがちなのがやや残念。

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さて、会津のさざえ堂を語るときにあまり説明に上がらないのが、順路の途中にある不可思議な通路(?)だ。

写真で、ぽっかりと口を開けている部分がその通路だ。

この通路は各階(つまり3ヶ所)にあり、登りの通路と下りの通路を短絡している。ちょうどDNAの構造の梯子状の部分のような感じだ。通路は狭いが、人ひとりが通り抜けられる程度の幅がある。

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この通路は明治時代の改修時に作られたものとされているが、この空間の本来の目的はわかっていない。

厨子の数は現在でも33に足りているので、この通路の位置にも厨子があったとは考えにくい。

ただし、全国各地にある優れた巡礼空間を見ていくと、これから通る先を穴などからチラ見せするという構造がけっこうあり、これはそういうカラクリ的な演出なのではないかと思う。

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写真はさざえ堂最上階にある「太鼓橋」。螺旋状の動線が反転する場所だ。

太鼓橋はさざえ堂建築を定義づける上で、重要なモチーフである。本所羅漢寺の五百羅漢堂でも通路の一部に採用されていたし、群馬県太田市のさざえ堂でも、1階に太鼓橋の構造を見ることができる。

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入堂者の意識を太鼓橋のカーブに集中させ、動線の反転に気付かせないトリックの働きもしている。

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この強引な構造がたまらない。

参拝者にこんな場所を歩かせるっていうことが、現代の建築の基準では考えられない。

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さざえ堂についてもうひとつあまり語られない謎がある。それは賽銭を集める樋(とい)の存在だ。

賽銭の投入口は各観音像の正面に写真のように設けられていた。現在は、多くが撤去されており、2~3ヶ所に残るのみである。

当時は白米を投入したとも言われている。

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厨子裏側内部の写真。

投入された賽銭(白米)は、樋を通り心礎部分に集められる。

写真の左側が投入部である。賽銭は左から右に向かって樋を流れ下るようになっている。

この構造は他のさざえ堂には見ることはできず、飯盛山さざえ堂にきわめて特徴的なものである。私は以前に取手市長禅寺のさざえ堂で、賽銭の回収に立ち会って厨子の下部に入らせてもらったことがあるが構造は単純なものであった。

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樋の心礎方向の様子。これらの樋は明治時代の修理の時の後補であるとされている。しかし、創建当時の構造もこれに近かったのではないかと思われる。

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樋を伝った賽銭は、一度短絡通路の部分にあいている穴に出てくる。本来はこの後、縦樋を通って1階の礎石部分に集約されたと言われているが、現在はその縦樋の遺構はない。

だがこの説には疑問もある。礎石部分にはメンテナンス用の出入り口が無く、賽銭や白米を回収しやすいとは思えないからである。むしろこの3ヶ所の短絡通路の部分に集約されたものを回収していたのではないかとも考えられる。 短絡通路の謎は、賽銭集約装置と一体で考えなければならない問題ではないだろうか。

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さざえ堂建築は日本の建築史では傍流であり研究書も多くない。現在のさざえ堂はかなりの部分が明治時代の改修によって補われた新しい部材で構成されていて、それ以前の構造、観音の配置、短絡通路の意味、賽銭の収集方法などは、すべて推測するしかない。そこが飯盛山さざえ堂の面白いところでもある。

(1999年08月22日訪問)

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