宿場町の古い絵図などを見ていると、たいてい道路の中央に水路がある。このような水路を何と呼ぶかは知らないのだが、私は単刀直入に“中央水路"構造と呼んでいる。こうした構造は多くの場合は昭和三十年代までに姿を消して、
いまでも中央に水路が残る宿場町はさすがにそれなりの観光名所になっている。だがよく観察するとまったく観光の対象にならないような無名の街道の宿場とも言えないような小さな宿場の跡にこうした構造が残っている場合がある。私は特に観光化されていない中央水路構造を愛していて、そういう場所は一度見たら決して忘れることはない。
岡山市の安住院へ向かう参道の一部が、その中央水路構造になっていたのである。こうした構造は街道筋だけでなく、街道から分かれた門前町にも見られるケースがある。
この道がそうだ。左右の道とも車が充分にすれ違えないような広さで、不合理きわまりないことは見ればわかる。水路を道の左右のいずれかに寄せるか、暗渠にすれば2車線と路側帯が確保できるだろう。
暗渠にならなかったのは、交通量が少なかったからなのか、距離が中途半端だったからなのか、はたまた住民が守ったからなのかはわからない。とにかく奇跡のようにこの水路が残されたのである。
道の突き当りには安住院の多宝塔が見えている。
心が豊かになる風景だ。
途中には川に入るための石段があったりする。住居・道路・用水が一続きになった空間であることがわかる。
今では汚水の流れるドブ川になってしまったが、それでもまだこの石段があるかぎりこの水路と住民のつながりは消えないのだろう。
途中に川幅がひろくなって、水を蓄えられるような場所があった。
そのすぐ下流には一段下がった岸が作られていてコンクリートで固められていた。ここは何かを洗って乾かすための場所か。
その貯水場。
野菜や農具を洗ったにしては大げさだ。広すぎて中央部に行くには水に入らなければならない。魚を飼ったにしては水深が浅いように思う。
これは妄想なのだが、もともとは防火用水として作られ、その後子供用のプールとして使われていたのではないだろうか。
(2001年05月01日訪問)