大御堂寺本堂。
江戸中期の再建だが、建物の形は古式にのっとっているという。
確かに屋根の勾配などにいかにも古さを感じさせるのだが、全体のバランスははっきり言って良くない。桁行に対して大棟が短いし、全体的に縦方向にの寸法が長すぎる建物である。これは縦方向が長すぎるのではなく、横方向が詰まったせいではないか。つまりもともとは桁行7間であったものが、再建時に予算不足で5間になってしまったのではないだろうか。
床の高さも、不自然に高く感じてしまう。はやり7間は欲しい建築なのである。
大御堂の前には水盤舎がある。
本堂の右奥には源義朝の廟所がある。
源義朝は源頼朝の父。平治の乱に敗れてわずかな家臣とともに敗走。この付近に住んでいた長田忠致(おさだただむね)の屋敷へと逃げ延びてきた。屋敷へと着いたのは年の暮れだったという。年が明けて、頼朝が正月に風呂を使っているところを忠致の裏切りで殺されたのだという。
義朝は殺される間ぎわに「せめて木刀の1本でもあれば」と悔やんだといい、その魂を慰めるため義朝の宝篋印塔の周りにはうずたかく木刀が積み上げられている。
木刀は本堂の右側で売っている。
義朝の墓の裏手には池があり、池の中には弁天宮が祀られている。
弁天池のほとりにあった愛染明王堂(左)と、弁天堂(右)。
内部には巨大な男根と女陰石が‥‥。
同じく、弁天池のほとりにあった大マニ車堂。
地味な外見からは想像もつかないすごいアイテムが収納されている。
内部の巨大マニ車。
直径1.5mはあろうかという本格的な造りのもので、日本にあるマニ車としては最大のもののひとつであろう。
もちろん自由に回転させることができる。堂内はかび臭い感じで、回しているととても心が落ち着く空間である。
マニ車堂の横に血の池という小さな池がある。
忠致が義朝の首を洗ったという伝説のある池で、池の中央には白木の卒塔婆のようなものが突き出していて、悪い夢に出てきそうなおどろおどろしい雰囲気が漂っている。
最小限のコストで最大限効果をもたらしている例と言っていいだろう。
本堂の前にあった四脚門。
源頼朝が寄進したという伝説があり、伝説どおりなら国重文に相当するのだろうが、実際は本堂と同時の再建あたりと見るのが妥当ではないか。ただし門柱は太い丸柱で、腰長押とあいまってとても力強い感じがする門であり、悪い建築ではない。柵があるところを見ると、町の文化財くらいにはなっているのかも知れない。もちろん、町の文化財には充分なルックスである。
境内をひと巡りしたところで本格的に日が暮れてきた。11月は本当に観光には向いていない月である。
それでも今日の最終目的地には着いたわけで、このあとは暗くなるまでのあいだ、適当に近くの寺々を見ることにしよう。
(2001年11月25日訪問)