いよいよ今日のお目当て、
石間川の最上流部には2つの字がある。ひとつは沢戸で、もうひとつは半納だ。まず沢戸を紹介する。
山の上から沢戸の集落を見渡したとこころ。このように急峻な山の斜面の一部にある緩やかな土地は地滑りの痕である場合が多い。
戸数は二十軒強といったところだろうか。山の南東斜面に密集して家々が建っている。
ほとんどの家は二階建てで、それはこの地で養蚕が盛んだったことを物語っている。
今ではどの家も車で登れる道が付いているが、道は家の前までで行き止まりになっており、集落の中を車で見学できるというような雰囲気ではなかった。
集落を下から見上げると、まるで崖の途中に家が建っているように見える。この写真のあたりは、地滑り地形の平らな部分ではなく、平らな部分が谷に落ち込んでいる斜面で、特に傾斜がきつい場所だ。隣の家の二階の屋根が、庭の下のほうに見えるというような状態になっている。
歩いて集落へ入る道はこの写真の斜面を上がっていく。石間川に沿った県道から集落の中心部までの標高差は100mはあるだろうか。
かつては沢戸で住むということは、子供の通学にしても毎日100mの高低差を登り降りする暮らしだったのだろう。
埼玉や群馬の養蚕農家には、このように1階と同じ面積の2階を持つ民家が多い。
そしてこのようにせり出した2階に縁をつけている場合が多い。こうした民家を出梁造り(出桁造り)と呼んだり、せがい造りと呼んだりするが、「出梁」とか「せがい」は、そもそも「せり出させる方法」の呼び名で、建物全体を表す呼び名としてはどうもフィットしないように思う。
この家などは、梁や桁を使ってせり出させているのではなく、腕木でせり出させている。
こうした養蚕農家は、2階での養蚕の作業の便利のために縁を作っているという点が特徴なのだから、もしかしたら「二階縁造り」とでも呼ぶべきなのかもしれない。
現在の沢戸集落の中を歩いてみると、とても日当たりのよい場所であることがわかる。
谷が深い場所では、沢筋ではどうしても日照時間が少なくなる。この日照を求めて、沢から100 m も登った尾根に集落は作られたのではないだろうか。
沢戸でもう一つ特徴的なのは、高い石垣が多いということである。
もちろん急傾斜地であるからどうしても石垣を積まなくては平らな土地を得られないのだが、石垣に適した石が容易に得られるということも、このような景観が生まれる要因のひとつだと言ってよいと思う。
沢戸の集落から、石間川の下流の方面を見たところ。
この道は秩父から群馬県の鬼石町方面への近道のひとつでもあり、明治時代には秩父事件の舞台ともなった場所である。
沢戸の集落から見る風景は、ここを駆け抜けた困民党の農民の目に映った風景とも、おそらくあまり変わっていないことだろう。
(2005年09月18日訪問)