続いて、半納集落の紹介。
これは沢戸から見た半納の遠景。
沢戸と半納はどちらも石間の小字だが、石間川を挟んで反対側の山の尾根にある。ふたつの集落の空中の距離は 1 km ほどだから、お互いの家々の様子はよく観察することができるのだが、行き来するためには一度谷に降りてまた登らなければならない。
半納の家々もほとんどが2階建ての養蚕農家である。大きな母屋が目立ち、すくなくとも近世においてはかなり豊かな村だったのではないかと推測される。
「半納」という地名は、年貢が半納、つまり半分に免除された土地という意味である。近くにある城峯神社の神領だったのかも知れない。
蔵にはそれぞれの屋号が記されている。
写真のような養蚕農家は明治中期~戦前くらいに建てられたものだろう。ぱっとみて江戸期まで遡りそうな建物は見当たらない。
2階に縁をめぐらせたの民家。
街道筋の出梁造りの民家では大棟と直行する方向にせり出させるのに対して、山間部の養蚕農家は桁方向、梁方向の両方に対してせり出させる構造が見られる。
この民家では、石垣を積んで作った平地いっぱいに母屋が建っており、ニワの上部が2階のひさしになっている。
空間を極限まで有効利用している例である。
西方を眺めると、彼方に沢戸集落が見える。
手前に続く街道のカーブは、まるでそのまま空中に飛び出してしまいそうな風景だ。
さらに集落の最上部のほうへ登ってみた。先ほどまでいた家々がはるか下のほうに見える。
集落を見渡せる尾根に、不思議な物件があった。火の見櫓だとすれば、本サイトでは初めて紹介する完全木造の火の見櫓だ。だが、火の見櫓にしては不自然な場所に立っている。
一般に火の見櫓の機能は、村に一大事が生じたときに半鐘を鳴らすことだが、半納の集落が経験したおそらく最大の事件は、秩父事件における官軍との戦いではないだろうか。半納でも実際に戦闘が行われており、この櫓は困民党が戦いに備えたものだったのではないかというようなことを想像してしまう。
半納の最上部あたりで見かけた民家。
その付近の民家の石垣には赤色チャートなどの色鮮やかな堆積岩が使われていた。
家に登るための小道。
途中には古いケヤキ(?)の樹があった。雷でも落ちたのだろうか、幹は途中で終わっており、大きなウロもできている。それでもなお、生き生きと枝を伸ばす姿は生命力にあふれて神々しいばかりだ。遠くには秩父方面の山並みも望める美しい風景。
これをただ美しいと思って眺めるのは、何不自由なく暮す都市生活者の感傷なのだろうか。
そのすぐそばですさまじい畑を見かけた。写真で傾斜を表わすのはむずかしいのだが、わかりやすく言えば、ただ立っているのもむずかしいような斜面に畑が作られているのである。イノシシよけのトタン板で厳重に守られた要塞のような畑は、山の生活の厳しさを物語っている。
(2005年09月18日訪問)