続いて、おなじ宮沢でも台地にある飼育所に向かった。
余談だが、車から下りて飼育所に向かう途中、左写真の畑でウスバシロチョウが飛んでいるのを見かけた。昨日みたヒメギフチョウと同じで、氷河期に繁栄した昆虫の生き残りで古い形態の蝶だ。高山蝶という印象で、私が子供のころはほとんど見たことがなかったと思うのだが、こんなところで見られるとは意外だ。分布を拡げているのだろうか。温暖化がいわれているのに不思議な現象だ。
この飼育所は、2棟の飼育所がつながった長い建物だ。
西半分の建物の入口には、「昭和48年度 養蚕生産地集団営農推進事業 金井原らせん循環式自動稚蚕共同飼育場」という看板が掲げられている。
らせん循環式というのは、稚蚕を載せたパレットが回転寿司のように循環する装置で、立体駐車場のように螺旋を描いて多層的に循環することで空間をより効率よく使うことができる。と同時に、上下が順番に入れ替わることで温度差によるカイコの成長のばらつきを防ぎ、給餌作業も軽減できるというすぐれたものだった。
稚蚕は狭い面積で大量に飼育できるのだが、それをさらに機械化し大規模、省力化しなければならなかった時点で、実は日本の養蚕は大きな転換点を迎えていたのではないかと思う。現代の農業施策でも、大規模化、機械化によって外国の農産物とコスト面で競争できるという発想があるが、いちど歴史を振り返ってみではどうだろう。
この飼育所の窓も、大きかった。大きな窓は榛名町の特徴なのだろうか。
東側の飼育棟は倉庫になっていたが、内部の室がまだ残っている。
室の扉は引き違い戸で、蚕箔2列を入れられる土室電床育の飼育室だったようだ。
土室の煙突の土管がまだ残っているのが見える。
土室の下部には、七輪を出し入れするための小窓が見える。ここから炭火(練炭)で使われた時代があることがわかる。
挫桑機も残っていた。
東側の飼育所の裏に回ってみると、外壁の下部に換気用の土管の跡が確認できた。
素焼き土管がたくさん捨てられていた。
想像だが、西棟のらせん循環式の飼育室は、土室を撤去して大部屋にして設置されたのではないか。
電床も捨てられていた。
土室電床育が行われていた証拠だ。
南側にはトイレがあった。
こうやって建物を一周りするだけでも、この飼育所の歴史がだいたい見えてくるのだ。
(2007年05月05日訪問)