旧榛名町宮沢は、榛名山の火山灰が堆積した台地と、沢に刻まれた谷地の2つの風景がある。乾燥した台地には果樹、谷地には水田が作られている。
この飼育所がある集落は谷地にあたる。なかなか見つからず、あきらめかけたとき、農家の背後に見慣れない建物が目に入った。
「これが、稚蚕飼育所なのか?」
古い建物だが、いままでに見た飼育所とは様子が違う。越屋根やベンチレーターがなく、軒も高い。そして飛行機の格納庫を思わせる大胆な開口部。
越屋根がないという点では、さきほど見た白川稚蚕共同飼育所と共通している。
内部は物置になっているようだが、あまり物も置かれておらず、土室が飼育に使われたときのまま手付かずで残っている。
隣の農家に断わって、中に入らせてもらった。
軒が高い理由は、このように土室の上に採光と換気を兼ねた窓があるためだ。赤城南麓ではこの窓は小窓なのだが、通常のサイズになっている分、軒が高くなっている。
小屋は木造トラスで、天井はない。大棟の位置には越屋根の痕跡もないので、建物の外見は建築当初からまったく手が加えられていないのだろう。非常に貴重な物件だと思う。
写真の右のところは屋根が抜けて空が見えているのが気がかりだ。
土室(どむろ)は片側に6室。全部で12室あるように見える。だが、実は3つ分の扉の中はつながっているので、正確には蚕箔3列が入る室が片側に2室ということになる。
3つの扉の中央の扉の上部に、電床線の配電盤が設置されている。そのため中央の扉だけが低くなっているのだが、これはもともとは同じ高さだった扉を切り詰めたようだ。
そのことからまず考えられるのは、この土室ははじめは土室炭火育として設計されたが、途中から土室電床育に変わったためスイッチを取り付ける場所がなく、しかたなく扉を切り詰めたという推理だ。
だが、つぶさにみていくと、もうひとつ別の可能性がみえてくる。
土室をよく見てみると、3室がつながっているが、それは壁をぶち抜いたのではなく、もともと壁がなかったようにみえる。土室炭火育の暖房は火鉢だったから、3室の3つの火鉢を同じ火力で調整するのがむずかしいだろうと思われる。
だが電床であれば均一に加温しやすいはずだから、室を大きくすることで温度のばらつきを少なくすることができるはずだ。
そう考えると、この飼育所は最初から土室電床育の設備として作られた可能性が出てくる。
そしてもうひとつ、その推理を後押しするのが、土室炭火育に特徴的な下部の換気用土管がないことだ。
これまで私は、土室電床育は土室炭火育の室を再利用した設備と考えてきたが、どうやらすべてそのように割り切れるものではないかもしれない。
下部の土管がないという以外は、土室の構造は標準的である。上部には換気用の土管煙突が2本あり、スライド式のフタがあるのも標準的だ。
カイコは餌を食べる期間と、脱皮のために休眠する期間を繰り返すが、餌を食べさせるときには湿度を高くし、休眠期間は乾燥させるという管理をする。このフタはカイコが休眠しているときに開放して湿気を抜くのである。
配電盤の様子。
元々は左のスイッチだけだったのが、あとからパイロットランプやサーモスタットが登場したのかもしれない。サーモスタットのセンサーを室内に入れるために、扉を切って配電盤を取り付けたのではないか。
初期の段階では温度計に頼っていたことは、扉の中央に温度計を差し込むスリットがあることからもわかる。
飼育所の奥は、右側が宿直室。左側が挫桑場になっている。
宿直室は、飼育所の温度などを監視するために、飼育長や農家が当番で泊まり込むために使われた。
挫桑場とは、カイコに与える桑の葉を準備する場所のことだ。
挫桑機(ざそうき)が置かれていた。「天竜式挫桑機」と書かれている。
挫桑機というのは、桑の葉を細切れにするフードプロセッサのようなものだ。
稚蚕とはカイコの1齢~3齢幼虫のことだが、1齢幼虫はとても小さくあまり動き回れないので、桑の葉をそのまま与えたのでは葉に取りつきにくい。桑の葉を1cmくらいの幅に刻んで与えなければならないのだ。
挫桑場の地下が貯桑場になっている。
稚蚕飼育では、1日に3回給餌するが、1日分程度の桑は先に飼育所に運び込んでおく。雨や夕立などで、葉が濡れると稚蚕に与えられなくなるため、余裕をもって備蓄しておくのだ。天気予報で翌日が雨とわかるときは、2日分をため込むこともあった。
貯桑場は、桑葉が蒸れてで傷むのを防ぐための天然の冷蔵庫なのだ。
地下に下りてみるとかなりヒンヤリしている。
群馬県の稚蚕飼育所のほとんどは、このように地下に貯桑場を持っていたと考えてよい。
梁の下に金属の柱が入れてある。これは後補のもののように思われた。
ストロボを使っているので明るくみえるが、実際は真っ暗でちょっと薄気味のわるい部屋だ。
宿泊室には表彰状が誇らしげに飾られていた。
日付は昭和46年、48年、53年のものだった。特に、46年のものは、養蚕組合からの表彰ではなく、吉野組製糸という製糸会社からの表彰だった。宮沢の養蚕組合が吉野組製糸の委託で養蚕をしていたことを物語るものだ。
昭和46年といえば、電床育の末期であり、より大規模な大部屋式の飼育所が建てられた時代である。
南側にはトイレと消毒槽が残されている。
この飼育所は、西群馬における後期の土室電床育の形態をほぼ完全な形で残している。高崎市の市指定文化財にしてもいいのではないかと思われるほどのすばらしい物件だった。
(2007年05月05日訪問)