県道137号線は、渋川方面から安中方面へ移動するときによく使う、S字カーブが連続する道である。あるとき、抜け道好きの知人とこの県道を通ったときのこと。途中でカーブをショートカットできる抜け道があるから通ろうと言い出した。私も無駄な抜け道はキライではないので、それじゃもっと無駄な道を抜けようということで、近くのダム湖のダム上の道を抜けてみようということになった。
そのとき偶然に見つけた稚蚕飼育所が、ここ富岡稚蚕共同飼育所だ。
建物はブロック積みの壁構造。高窓はなく、小屋根の部分から採光するようになっている。
作業者の出入口のところは屋根付きになっていて、雨の日の出入りや資材の搬入にも便利だったろう。
内部はブロック電床育だった。
小屋組みは軽量鉄骨のトラス。
おそらく年代的には昭和40年代ではないかと思う。
東側には独立したトイレと物置があった。
飼育長だった人に偶然に会ったので話を聞かせてもらえた。平成元年か2年くらいまで使われて、最後まで人工飼料にはならずに桑葉育だった。
この飼育所のある地区には当時100戸くらいの農家があり、43戸が共同飼育に参加した。桑葉は畑で摘み取って搬入した。つんだ桑葉はそのままでは熱を持ってしまうので、水を打ってかき回したそうだ。
建物はかなりの傾斜に建っていて、貯桑場は道路からそのまま搬入できるようになっていた。写真奥の窓のついた筒状の部分があるが、ここは地下から桑葉を運び上げるエレベータだそうだ。
挫桑(くわを刻む作業)は地下で行い、ザルに入れてエレベータに乗せた。その話が聞き違いでなければ、この飼育所は挫桑室が地下にあることになる。この構造はほかには聞いたことがない。
飼育所は現在は自治体が所有しているが、役場に買ってもらのは大変だったという。というのも、飼育所を建てたときに43戸全員の連名の登記にしたが、組合の解散時には本人の半分は亡くなっており、転出してしまったりで、代替わりした人がハンコをついてくれなかったりで最後は裁判騒ぎになったという。
この飼育所ができた昭和40年代は生糸の輸入が自由化されており、いま冷静に考えれば養蚕業の斜陽化は予見できたはずだ。だがその元飼育長さんに聞いたかぎり、当時、養蚕が斜陽になるという空気は養蚕農家にみじんもなく、増やせ、増やせで設備投資が盛んだったという。
その後、養蚕が傾くと同時にこの地域では梅栽培が盛んになり、短いバブルもあった。初期には梅1個に10円の値がついた時代もあり、「緑のダイヤ」ともてはやされたという。その梅もいまは1/10ほどの値段になっており、まったく儲からない作物になってしまったという。
(2010年05月04日訪問)