「行田」は「おくなだ」と読む。不思議な読みかたの字だ。
飼育所らしき建物はすぐに見つかったのだが、アプローチを間違えて、道のない方向から近づいてしまった。配蚕口が見えているのだが、外はすぐ畑地になっているので近づきようがない。草の伸びたあぜを足を取られながら進んで行く。
近づくと、建物は2棟が継ぎ足されたような感じになっている。桟瓦の越屋根付きの部分が古い建物で、外側に土室特有の土管が露出しているが、モルタルでふさいである。土室電床育の施設なのだろう。
手前のスレート瓦葺きの部分は、高窓の様子からブロック電床育の施設だろう。
建物を回ってみると、反対側も配蚕口の造りになっていた。写真の右手に見える扉の部分はトイレのようだ。配蚕口の横がトイレというパターンはめずらしい。松山の飼育所で見たくらいであまり思い当たらない。設計上は水周りを集めるのは常套だし、宿直者が利用するのにも宿直室から近いほうが便利だからだ。建物の外周がすぐ畑で、歩く場所がないためこうなったのだろう。
管理していると思われる農家の人がいたのでお願いして中を見せてもらうことにした。
内部は倉庫などに転用された気配がなく、今年もここで飼育をするのではないかというような空気がただよっていた。
碓氷方面では、ここまでに土室電床育の飼育室をいくつも見ているが、手が加わっていない飼育所に入らせてもらって観察すると情報量がまるで違う。もちろん、ここを見たときにリアルタイムには意味が理解できなかった要素もあるが、結局、その後ほうぼうで知識を得るための材料になっているのだ。
土室の外観は、まさに「土壁」の「ムロ」というのがよくわかる写真だ。
土室は片側6室で、合計12室。
壁や梁が青いペンキで塗られているのがすごくおしゃれだ。
この飼育所が出来たときには、養蚕が日進月歩に進歩していく時代で、まばゆいばかりの近代設備だったのだろう。
室の扉に取り付けられていた「土室専用乾湿計」。この存在は、赤城南面の飼育所巡りのとき小坂子の農家から聞かされていて知っていたのだが、実物を見るのは初めてだった。
このようにスライドして引き出せる構造になっている。
「乾濕計 全養連 簡易稚蚕飼育用 土室用」と書かれている。
外側から見えるガラス管はL字型に折れ曲がって、実際には倍ほどの長さがあり、扉の内側にまで伸びている。
こうした器具が既製品として流通するくらいに、たくさんの土室が作られたのだという時代の証人だ。
室は、2室がつながっている。壁をぶち抜いたという感じではなく、もともとつながっていたようだ。
榛名南麓の宮沢の飼育所では、2室連結の土室に下部の換気口がなかったことから、「連結土室は作られたときから電床育だった土室の特徴ではないか」と推理したのだがどうやらそれは外れていたようだ。
というのも、この飼育所では2室が連結しているうえに下部の換気口があり、しかも中央の四角い穴は掘り下げてある造りになっているからだ。掘り下げ型の穴は七輪を出し入れするための構造で電床育には必要ない。
宮沢の飼育所が最初から電床育だったかどうかという問題は別として、「2室連結=初めから電床育」という判断は間違っていたことになる。
「昭和丗六年四月」と墨書されたちり取りを発見。おそらくこの飼育所が建てられた年ではないかと思う。
「よい桑、よい繭、よい暮し。」「笑顔が広がる養蚕」というスローガンの書かれたポスター。
「よい桑」「よい繭」というのは養蚕の基本で、いろいろな農家で聞かされた。
小屋は木造トラス。トラス部分にもペンキが塗ってある。本当にカッコいい。
梁には
「晩秋蚕稚蚕共同飼育標準表 平成13年8月」とある。「標準表」というのは、蚕の飼育の手順書で、何日目の何時に給桑するとか、除沙するとかのスケジュールが細かく書いてある。(拡大写真)
平成13年は、この飼育所が最後に使われたときのものなのだろう。稚蚕飼育の10日分の工程だけで1枚になっているのが貴重だ。標準表は現代でも配布されていると思うが、印刷ではなくコピーになっているはずだ。群馬県内で稚蚕飼育をしている施設は数えるほどしか残っていないからだ。
地下の貯桑場への入口。
2つの棟の連結部分にある。通路になっているので、フタを開けっ放しにするとアブナイ。大量の桑を持って出入りするには小さくて不便だったのではないかと思う。
貯桑場への降り口の横には、床を張った部屋がある。ここは挫桑場ではないかと思う。
これまで見てきた飼育所ではことごとく挫桑場は床張りになっている。なぜ挫桑場だけが土間ではなく床張りなのか、いまのところは謎だ。
その反対側には黒板がある。この黒板には、きっと飼育作業の各種の当番が書かれたはずだ。不思議なことにこの飼育所には宿泊できる部屋がない。
手前にあるシートのかかった物体は挫桑機。
昭和36年のこの飼育所ができたときには、もうこうした機械はあったのではないかと思う。挫桑機登場以前には、包丁とまな板で刻んでいた時代があった。
「電子温度調節機」と書かれた器具。
養蚕用とは書かれてはいないが、調節用の目盛りを見ると、中心が「27度」になっていることから、おそらく稚蚕飼育専用の機材だったのではないかと思う。
27度は稚蚕の1齢の飼育温度。2齢では26度、3齢では25度というように温度を変えて飼育飼育する。
奥側の部屋はブロック電床育の飼育室になっていた。
ここは3齢の飼育のために使ったのではないかと思う。稚蚕飼育はもともと2齢までだったのが、3齢まで共同飼育するのが標準になったのは、比較的時代が下る。おそらく平成になってからではないか。
3齢配蚕が広まるとき、このように増築した飼育所が多かったのだろう。
桑くれ台が当時の姿のまま置かれていた。
まさに時間が止まったような風景。
本当にいいものを見せてもらった。
(2008年05月03日訪問)