妙義山を構成する峰のひとつに金洞山という山がある。その山のふもとにかつて製糸業にかかわった豪農の屋敷があり、見学させてもらえるというので出かけた。
群馬県の製糸というと明治初期に作られた官営富岡製糸場の名前が有名で、その製糸方法は「器械製糸」と呼ばれるものだ。だが実は明治中期までの群馬県の製糸の主力は「
明治末期にかけて群馬では座繰り製糸の従事者を束ねた製糸組合が繁栄した。この地域を束ねていたのは、「下仁田社」という組合で、この家はその中の「金洞組」の流れの「金栄組」という会社にかかわっていたという。
現在は、製糸工場の建物は残っておらず、大きな養蚕農家が残っているだけだ。もともと座繰製糸は大規模な建築物があるわけではないから遺構も確認しにくい。
ここを見学させてもらった目的は、これである。
これまで当サイトを見てきたら、すでに察しはつくと思うが、着目すべきは土壁の下のほうから顔を出している土管。
そう、なんと個人所有の土室があるのだ。
蚕室が斜面に建っていて、半地下の部分に炉への入口がある。
これまで見た土室の構造とは少し違うが、電床に改造されておらず、非常によい状態で残っている。
炉の内部を見上げてみたところ。
ここでは、炭火の管理をするだけで、2階から蚕箔を出し入れして使用したようだ。
2階に上がらせてもらい、土室を開けてみた。1列10段の標準的な構成だ。
内部には稚蚕飼育用の
蚕の繭を殺蛹し、水分を蒸発させて保存しやすくすることを「乾繭する」という。通常は乾繭は製糸工場で行なうのだが、座繰製糸では農家が繭からの糸取りまで行なうこともあるので、自前で乾繭する必要がある。
もしかすると、この土室は稚蚕飼育ではなく、主に乾繭に使っていた可能性もある。
丸い焙烙(ほうろく)のように見える物体は、蚕の幼虫を運ぶのに使う「カルトン」という皿。土室で蚕具のホルマリン燻蒸したのかも知れない。
なにやら見慣れないものが展示してあった。
説明板に彌式竹まぶし織り機と書かれている。この家の当主、斎藤彌作氏が考案した、竹を材料とした
この機械は、竹と針金で作ると書かれていて、珍しいものだと思う。
家のすぐ前を流れる沢の反対側、製糸場を営んでいた時代の工女宿舎跡があった。北向きの斜面で、あまり住み心地はよくなかったろうと思う。また、沢の対岸に作ったのは、工女が逃げたりしないように監督する意味もあったのではないか。
こんなふうに書いたら、非人道的に聞こえるかもしれないが、当時としては特にひどい待遇だったわけではないし、逆に村の男たちが寄り付くのを避ける意味もあったかもしれない。
(2010年02月20日訪問)