そのむかし街道筋の宿場の多くでは、道路の中央に水路が流れ、その両側に道路があった。自動車社会になりそれでは不便なので、ほとんどの地域では水路は埋められたか道路の端に移された。
だがその時代の波を乗り越え、水路を中央に残したまま生き残った町並みがわずかに存在している。当サイトではそれを「中央水路構造」と呼んでいる。群馬県には小幡、白井、北牧、丸山の4ヶ所に残るが、最も一般人受けするだろうと思える町並みが、ここ小幡町である。
水路に沿って続く町並みは約500m。古い商家や養蚕農家などが多く残っていて、雰囲気もよい。
そして、おかしな「修景」(=いちど破壊された町の風景を繕うため、現代の建物や設備の外装を昔ふうに偽装にすること)があまり行われていないのも個人的にはプラスの評価ポイントだ。
町を流れる水路は「
当サイトでは以前にこの上流部分の石橋「吹上の石樋」を紹介したことがある。
町並みの途中でみかけたたばこ屋。
戦前の左右逆の書き方なので「こばた」と読める。そういえば、私が子供のころ住んでいた前橋市の岩神町3丁目の三差路にもこんな左横書きの看板のたばこ屋があった。えらいレトロな建物だったと思うが、いつのまにかなくなっていた。古い写真など残っていたらいま一度見てみたいものだ。
もと養蚕をしたと思われる建物。
農家、商家、旅館、スナックなどになったのだろう。かなり混とんとしたたたずまいで、この町並みで一番すきな建築だ。
中央水路と言っても、両側が対称なわけではない。西側が2車線の車道、東側は石畳の歩道になっている。
したがって、厳密な意味ではこの町並みは中央水路とは言えないのではないかと、高校生のころの私は悩んだものだった。まあ、いまは甘めに採点で、中央水路構造として分類してもいいと思っている。
水路におりる洗い場。
水路に流れてくる落ち葉を回収する設備として利用されている。
町並みの途中にあるつるべ井戸。
新しい設備だが、まさか雰囲気だけのためにこんなものを作るとは思われないので、以前からあったものを補修したのだろう。
水路にかかる橋の上から見た、水路をセンターに入れた構図。。道路の幅がかなり広いことがわかる。
かつて群馬県の街道筋にもこんな風景がたくさんあったはずだ。いまでも、いくつかの町では、自動車で走っていても「ここは中央に水路があったな」とすぐにわかるような道幅の場所がけっこうある。
水路の途中にあった謎の施設。
案内板などもないが、想像するなら、鯉池だったのではないだろうか。
町並みの北寄りには、妻を白壁にした立派な農家が続いている。
一見すると造り酒屋か?と思いがちだが、養蚕が盛んになった明治時代に作られた豪農だと思う。
水路にかけられた芋洗い水車。中に里芋を入れておくと、摩擦できれいに皮がむけるという便利な道具。
観光用のアイテムだが、古くからここで同様のものが使われてきたというのもまた事実だろう。私が高校生とき、初めて芋洗い水車というものを知ったのはここだった。
私が高校生のときにはすでに観光用として設置されていたわけだから、もううん十年は続いていることになる。
水路の町並みの北のはずれ。
ここで道幅は狭くなり、用水は道路から離れていく。
町並みの北のはずれに豆腐屋があった。
もう日暮れていたが営業していたので、夕食用の豆腐を買って帰ることにした。
車を駐車していた町の資料館までもどってきたときには、すでに西上州の山並みがシルエットになり夕景に溶けようとしていた。
(2013年11月24日訪問)