先ほど立寄った徳命新居浜と同じ大字、徳命元村というところにある八幡神社を訪れた。
おっ、滑り台が見える。
周囲は藍農家のたたずまいを残す民家や、アパートなどが並ぶ住宅地だが、クスノキとイチョウの目立つ鎮守の森に包まれた古い神社だ。
この神社の前の車道は、旧讃岐街道という古い街道だ。
讃岐街道は、源義経が屋島攻めの際にも通ったとされる古いルートを江戸時代に街道として整備したもので、徳島県道1号線がほぼなぞっている。
だが、吉野川の渡河ポイントは現在の名田橋ではなく、500mほど下流の徳命の渡しだった。したがって、その区間のみ古街道は県道に指定されずに取り残されて、このような住宅街の中の細道になっている。
徳命の渡しはもう面影もないが、それでも渡しの前後の道はいまでも街道のオーラが残っており、容易にたどることができる。
鳥居には大正8年という銘がある。徳島の石鳥居を見ると、大正時代に建てられたものが多く、建立ブームがあったのだろう。
鳥居の右手には五角地神塔。
江戸時代に徳島藩主のおふれで各村に立てられたのが始まりとされ、徳島県下では多くの神社で見ることができる。
参道にあった古めかしい水銀灯。
鳥居を入って左側には水盤舎。
拝殿の前には
拝殿は千鳥破風付きの切妻妻入りの建物。
この建物の基壇を見ると、50cmくらいの石垣になっている。過去の長い時代、吉野川は氾濫を繰り返してきた。氾濫した場合はこの50cmが最高水位で、この上は水から逃れることができたのだろうと推測される。
この地域は吉野川の氾濫によって肥料分の多い土が蓄積し肥沃な畑地を形成した。藍は多くの肥料分を必要とする作物で、吉野川の氾濫と藍栽培は切っても切れない関係にあったのだ。
本殿はもう少し高く石積みされている。
50年に一度、100年に一度の洪水でもこの高さは超えないというような水位なのだろう。
本殿は三間社流造。
末社の稲荷社。
社務所。
境内にはブランコと滑り台があった。
滑り台は開放デッキの竪琴台。タラップの蹴上げ部分ごとに貫があってごちゃごちゃして見えるが、段数は9段。
これまでに見たことがないタイプの台だ。
(2004年09月02日訪問)