四国霊場の8番熊谷寺から9番法輪寺へは、四国遍路序盤の難ルートで迷う人も多いのではないかと思う。険しい山道というわけではない。土地改良が進んだ扇状地で、正しい遍路道がよくわからないのだ。
この神社はそんな広々とした扇状地の山際にある。
赤い両部鳥居とその奥に建つ入母屋の妻が、遠目には山王鳥居のようにも見える。日吉神社ということなので先入観もあり、よけいにそう見えるのかも知れない。
実際の鳥居はこんなふうで、最近建てられたばかりのようだ。
神社の前は長い参道で、扇状地を見渡せる。
かつてタバコ栽培が盛んな場所で、いまでもこの周辺には多くのベーハ小屋が残っている。
短い石段を登ると、ゲートボール場のような場所があり、高札があった。
水田農村公園と書かれている。「水田」はこのあたりの字である。
水盤舎。
その奥には木造複合遊具の滑り台があった。
滑降面はステンレスだが、手すりが木製。一部は腐って崩れていた。手すりを持って滑るとトゲが刺さりそう。
木造の滑り台といえば緑の丘スポーツ公園に滑降面が木造というとんでもない台があるが、ここはその場所から3kmほどしか離れていない。
同じ時期に同じ予算で作られたものなのか。
広場を進むとまだ短い石段がある。
遠目に拝殿かと思ったその建物は、独立した
基壇部分は作り直されて新しいが、上屋は大正か明治くらいは行ってそう。
神社には舞を奉納するための神楽殿という社殿が作られるが、それは境内の隅にある場合が多い。そして構造的には3面吹き放ちで、残り1面は壁(鏡板)になっているものが一般的だ。
このように、参拝経路の中心線に建てられ、4面吹き放ちの神楽殿を当サイトでは神楽殿と区別して、「舞殿」(もしくは「南宮型神楽殿」)と呼んでいる。
舞殿の内部は絵馬殿で、戦争絵馬があった。
戦艦は長門か。昭和13年と書かれているので、開戦前の姿を描いたものと思われる。
舞殿を後ろ側からみたところ。
参道から直線的に配置されているのがわかる。
舞殿の後ろには中門があり、玉垣に囲まれた本殿がある。
舞殿の後ろに玉垣で隔離した空間を作っている配置は南宮大社を思わせる。こうした様式があるのだろうか。
本殿は流造。
最近修復した跡があるが、やはり少なくとも戦前くらいは行きそう。
舞殿の右側には納屋。
その奥に真新しい末社。
舞殿の左側には社務所があった。
境内にはほかに籠り堂のようなものがあった。
扁額のようなものがあったが完全に摩滅して読めない。
その前には役行者の石仏。
神社の境内にあるので、もともとは神社の一部だったのだろうが、だいぶ荒れ果てている。
(2005年02月27日訪問)