旅の4日目、最初の訪問地。
山口駅北東の山麓の
参道の周囲の古熊集落はこの神社の門前に形成されていて、神領だったのかとも思わせるが、明確に社家が並んでいるというわけではない。
神社から少し離れたところで参道は石段になり、鳥居がある。
だが車道は迂回していて境内まで進むことができる。
鳥居の横には辻堂があった。
仏教的な感じのものであり、神社に付属していたとすれば、神仏混淆時代の名残なのかもしれない。
境内に入ると、まず右手に社務所がある。
さらに進むと水盤舎。
その先にはトイレ。
扁額に「可浄」と書かれている。「不浄」をもじったものかと思う。初めて見た言葉だ。
水盤舎の前には狛犬。
比較的新しいもので、雄々しくて立派な像だが、どこかで見たことあるというような個性にとぼしい像だ。
こうした、対象をよく研究して適切な意匠を与えるのは、ある意味、平成の宗教的造形の特徴なのかもしれない。それに対して昭和に作られたものは「見ないで思い込みで作ったろ!」というような雑さが目立つが、そこが個性的で観察のしがいもあった。どちらが良い悪いという問題ではなく、時代の違いなのだ。
境内の左側には護符売り場。
さて、この神社の拝殿もごらんのように重層である。今回の旅では、すでに何度も見てきた様式だ。
案内板によれば、社殿は室町時代(1547)のものと書かれている。見たところ本殿は仏教建築であり、そのたたずまいから室町時代なのは間違いないと思うが、案内板の文章をよくよく読んでも、本殿のみが室町なのか、拝殿までが室町なのかうやむやな書き方になっている。
でもまあ、なにせ本殿と拝殿の両方が国重文に指定されているので、拝殿も室町時代のものなのだろう。
だとすれば、これまで見てきた重層拝殿の雛型候補と言えるのではないか。つまりは、山口県に多く見られる重層拝殿の一般呼称として「古熊造り」という言い方ができるのではないかということだ。
もっとも、文化財の案内板にはこの様式についてはあっさりと「楼門造り」と書かれている。
私の理解では「楼門造り」とは、「山門が二階建てになっていること」を意味する言葉であり、ちょっと大ざっぱ過ぎる気がする。やはり「古熊造り」をこの様式の候補として推したいと思う。
拝殿の背後、本殿との間には幣殿がある。そして幣殿の右隣にも別の社殿(左写真)があるが、これは神饌所ではないかという気がする。
この拝殿→幣殿→本殿と並ぶこの神社の配置が権現造の原初の型式という記述がネット上に散見されるが、個人的には疑問だ。ぜんぜんそういう気がしない。これはやはり山口県の特有の様式だと思う。
拝殿の左側にも神饌所っぽい建物がシンメトリックに建っている。神饌所とは神前に供える供物を準備(調理?)するための場所とされる。
ここでは神饌所が2棟あるのか、あるいは機能的に分離していて何か別の社殿なのかはわからない。神饌所はありふれた建築ではないから、そういうところを文化財の案内にも書いてほしいところだ。
本殿は入母屋平入りの仏教建築。屋根は檜皮葺き。
気持ち木割りが細い印象だが、美しい姿の建築だ。
左側に見えているのが、推定神饌所の背面。
本殿の四隅には木像が置かれている。
背面にあるのは狛犬で、前面にあるのははっきりとはわからないが随身ではないか。
本殿の右奥には末社の金刀比羅宮。
金刀比羅宮の右側に神輿庫。
さらに右奥に進んで行くと末社の天満宮がある。
境内には洗い出し仕上げの狛犬もあった。
本殿におかれている木像を初代とすれば、これが2代目、現在正面に配置されている青銅製が3代目なのだろう。
コンクリ製の神馬もあった。
神馬も拝殿右に青銅製で再建されているが、こちらが先代なのだろう。
(2003年09月06日訪問)