興禅寺

本堂裏に渡辺数馬の墓がある、庭園もみごと。

(鳥取県鳥取市栗谷町)

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鳥取城の南側の寺町へ移動。山すそに十数件の寺社が並び、この界隈が本当の意味での寺町といえる。

最初に訪れたのは興禅寺。宗派は黄檗宗。

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参道は桜並木で、途中に鉄骨造の鐘堂がある。

勝手に撞くなといような注意書きあり。

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伽藍配置図。本堂の裏に庭園があるようだ。

また境内はキマダラルリツバメというシジミチョウの生息地になっている。キマダラルリツバメは尾(スワローテイルみたいな部分)が4つある蝶で、模様も美しく、一度見てみたい蝶だ。

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石州瓦で葺かれた本堂は、前後2つの建物になっている。神社の本殿、拝殿のようなイメージだ。手前の拝殿部分はかなり新しそうな建築。後ろの本殿的な部分はここからではよくわからない。

本堂の右側には玄関、その奥は禅堂になっている。

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玄関の右側には庫裏。

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庫裏の右側には位牌堂と思われる建物がある。

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本堂の前には大きな樹がある。イヌマキか?

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本堂の左側から、本堂の裏山へと登る小道がある。

その登りばなに、コンクリート造の地蔵堂がある。

ここから少し登ると、渡辺数馬の墓がある。

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渡辺数馬は「鍵屋の辻の決闘」の仇討ち物語の中心人物。

数馬の弟は岡山藩主池田家に仕え、藩主の小姓として寵愛を受けていたが、同僚の河合又五郎という男に殺害された。又五郎は逃亡し徳川家に近い他家に匿われたため、池田家では処罰することができなかった。

藩主は亡くなる際に又五郎を討つべしと遺言したため、数馬がその任にあたった。数馬が助太刀として雇ったのが剣豪、荒木又右衛門であった。数馬らは又五郎の居場所を突き止め、甲賀市の鍵屋の辻という場所で仇討ちを果たした。

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庫裏で拝観を受け付けている。拝観料は200円。

まずは本堂に参拝しようと思うが、途中に禅堂を通過する。ここは禅堂の前室部分。禅堂内は修行中で立入禁止だった。

本堂と庫裏の間に禅堂があるのは珍しい構造だ。通常は客殿などがこの位置にある。

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ここは拝殿部分。

法事などを想定して増築されたのか。

円窓や中華風の桟戸のシルエットが美しい空間。

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ここは本殿部分。

内部は一般的な須弥壇ではなく、小さな舞台のようになっている。

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舞台上は本尊の釈迦如来のほか天部の神々が並び、背後は天女の書き割りになっている。仏の世界を表現したすばらしい造り。

本殿の天井は格天井だが、この舞台上はさらに天井が折り上げてあり豪華な造りだ。

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須弥壇のメンテ用の箱段が、さらに舞台感を高めている。

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庫裏へと移動。

庫裏の北面の間は書院になっていて、その縁側から庭園を観賞できる。

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池泉回遊式庭園で、コンパクトだがよく整った美しい庭園。

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山は二つあるが、右側の山には道が見える。

このあたりをじっと眺め、水辺にたたずんだり、山を登ったりする空想をするのが楽しい。

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この庭園の一角にキリシタン灯籠なるものがある。

灯籠の竿の部分に人物像が彫られていて、これを隠れキリシタンがキリストとして信仰したとされるが、史実かどうかは不明。

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庭園の手前の書院をせっかくなので紹介しておく。

寺において「書院」とは、語源からすれば住職の書斎を意味するが、現代においては接客の間として機能することが多い。この写真の奥左の細い障子のように見える構造を「(つけ)書院」という。この構造を持つことを基準として部屋を「書院」と呼ぶのだからこれは部屋の名前であり、建物の名前としては「客殿」でいいのかもしれない。

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付書院を縁側から見ると、出窓のように飛び出している。これが付書院の特徴である。

この飛び出しがなく、手前の障子とツライチで造られる書院は「(ひら)書院」と呼ばれる。

(2005年05月03日訪問)

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