前稿までで鳴門市から上板町までの撫養街道に沿った芝居小屋/映画館を探してきた。ここでいったん東の海岸まで戻り、今度は松茂町から西に向かって辿っていく。
これまでに辿ってきた街道は「撫養街道」という言い方と「川北街道」という言い方がある。撫養街道は一般に県道12号線と説明されるが、実走してみると鳴門市→板野町→鍛冶屋原→安楽寺→切幡寺→県道139→岩津というルートが古道であり、実感としては県道12号線と同じという感じはない。
一方で、吉野川北岸の流通の基幹は、現実には松茂→県道14号→吉野町→県道12号→岩津であり、交通量、ロードサイド店の数もこのルートこそが川北街道と呼ぶにふさわしいように思う。
さて、その起点でもある松茂町から映画館跡を見ていく。
松茂町は人形浄瑠璃が盛んだった土地だが、常設の芝居小屋は確認できる限りでは「松茂座」という劇場しかわからなかった。浄瑠璃の上演は神社の境内などでも行われたので、意外に常設の小屋というのはなかったのかもしれない。
画像は松茂座とされているもの。(松茂町歴史民俗資料館より借用。ニューラルフィルタにより彩色。)
松茂座内部。
まさに人形浄瑠璃を上演しているところだ。
松茂座は現在のJA松茂支所の場所にあったという。
私が聞き込みした限りでは、松茂座は終戦後に建てられ、現在の農協の建屋よりも間口は小さかったという。
戦時中に松茂には海軍飛行隊の基地があった。その基地の飛行機格納庫の払い下げの資材で松茂座を建てたので、屋根の形は格納庫の形(かまぼこ屋根?)のままだったそうだ。
ちなみに、松茂にあった飛行隊は大戦末期には特攻隊の基地になった。それも、速力の出ない練習機に爆装して体当たりさせるというものだった。これでは同じ特攻でも敵艦に届くことなく撃墜されてしまう犬死にのような作戦だ。本当に虚しい残酷な話だと思う。
現代社会でも、総力戦、戦略面で負けているときに上の人間が「出来ない理由を口にするのでなく、小さくても何ができるかを考えよう」みたいな言い方を続けていると、現場では誰も本当のことを言わなくなり、全員で非効率なことを始めてしまうことがある。当時もそんな空気だったのだろう。
(2007年01月20日訪問)