渋沢栄一生家の南側に、小さなお堂があったのでお参りしていく。
中は見えないが薬師堂である。
堂の左側に基礎のようなものがあるのでかつては籠り堂でもあったのかもしれない。
このお堂に立ち寄ろうと思った決め手は、この地蔵菩薩の石像。
これって、徳島県の吉野川の氾濫原の藍づくりが盛んな地域でよく見られる「
関東の言葉だと「
この地蔵は安政7年(1860)に、渋沢家の
ただ、この場所は東の家の近くで微高地だからこの像が浸水するほどの水位になることはなさそう。高地蔵は氾濫原や低湿地の水田地帯に立てられることが多いのだ。移設したのか、あるいは、高地蔵の意図はないただの地蔵なのか。
地蔵の右側には二十二夜の月待ち塔。
地蔵の左側にある背の高い板碑は、渋沢栄一が大正時代になってから天狗党の死者を供養するために建てた碑だという。天狗党とは幕末に水戸藩の攘夷派が決起し敗れたた者たちだ。
(2023年01月31日訪問)