旧渋沢邸・中の家

渋沢栄一の誕生の地。建物は後年のもの。

(埼玉県深谷市血洗島)

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続いて、渋沢栄一が生まれた家、「中の家(なかんち)」へ行ってみた。中の家は渋沢一族における分家の呼び方。渋沢家は村の土地の1/4を所有する大地主で豪農、豪商だった。特に中の家は栄一の父の時代に財をなし、とても豊かだった。

渋沢栄一は幕末の天保11年(1840)年にこの家で生まれた。

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現在の残る主屋は栄一が生まれ育ったときのものではなく、明治28年(1895)、栄一が55歳のときに建て替えたものだ。東京の飛鳥山に住んでいた栄一はどきどき帰郷しているから、栄一にもゆかりの深い建物といえるだろう。

残念ながら修復工事中でまったく中は見れなかった。

わかりにくいけれど、北関東の養蚕農家、細かく言えば総二階切妻造り右勝手で、気抜きは総櫓型。建物の左側に下屋がある。明治~昭和には養蚕もしたのだろうと思われる造り。下屋部分は養蚕時期の家族の寝所だったろう。

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裏側から見たところ。

北側には2つの部屋が突き出ている。この間取りが明治時代からのものなのかよくわからないが、徳島県の藍農家によくある間取りで、私はこうした民家を勝手に「出釜(だしがま)造り」と呼んでいる。

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建物の説明は案内板があるが、どうも漠然としている。

指定されている文化財の種類は「指定史跡」なので、あくまでも「渋沢栄一が生まれた土地」という地面への指定であって、ウワモノについては指定していない。変に有形文化財に指定して、手を入れられなくするよりは、土地の指定にとどめて、主屋は内部を自由に改装しようということなのだろう。

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敷地に入ると、渋沢栄一がパリ万博を視察したときの姿の銅像がある。

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敷地の東側には蔵が並んでいる。

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骨格は明治初期くらいと考えられるが、だいぶきれいに改装されていて、文化財的な価値は低そう。

これは藍玉を作った場所という。

だとすれば、いわゆる「藍寝床(あいねどこ)」という施設ということになるが、埼玉県で藍寝床を探すときの参考にできるかどうかは判断できなかった。

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案内板を見ると地下室があるらしい。

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蔵の隣りにある「副屋」という離れ。

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明治44年(1911)の比較的新しい建物で、事務所として使われていたようだ。

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渋沢邸からは東隣りの家と庭がつながっていて、そちらは現在、料理屋をやっているようだ。

建物はやはり総二階切妻造りの典型的な北関東の養蚕農家。

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渋沢邸の裏庭にある、渋沢平九郎追懐碑。

平九郎は尾高惇忠の弟で、後に、栄一の養子となったが渋沢がヨーロッパ外遊中に、飯能戦争で戦死している。

この碑は大正6年に栄一が平九郎を偲んで渋沢家墓所(谷中霊園)に建てたが、墓所の整理のため平成26年にこの場所に移設したもの。

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この場所には、ほかに、栄一の父と母を偲んだ碑も並んで立っている。

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渋沢家の裏庭。

生垣の奥の明るく見える場所は低湿地で、水田が広がっている。渋沢家がある場所はいわゆる微高地なのだが、連続的な自然堤防ではなく、島状に点在する微高地だ。

この場所の住所は「血洗島(ちあらいじま)」というが、川が氾濫すると島になることからそうした地名がついたのだろう。

主屋の修復は2023年にも終わるというが、建物が文化財というわけでもないし、改装後は、古民家ではなく展示館になりそうな感じ。

改修が終わってからまた来るかというと、自分的には優先度は低いかな。

(2023年01月31日訪問)

福岡の町並み (アクロス福岡文化誌 5)

単行本 – 2011/4/1
アクロス福岡文化誌編纂委員会 (編集)

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